①播磨造船所

村の小さな造船所から日本有数の大造船所へ

播磨造船(ハリマドック)は船渠一つで修繕を行う小さな造船所であった。第一次世界大戦が勃発すると、相生町長唐端清太郎は鈴木商店に造船所の買収と拡張を懇請する。大正5(1916)年4月、鈴木商店は播磨造船株式会社の事業を継承して株式会社播磨造船所と改称、膨大な資本を投下して事業の拡張を図った。大正6(1917)年1月、鈴木商店は甲崎の第一期埋立てに着工、埋立地に新造船のための船台を建設した。

播磨造船所が建造した一番船は、54総トンの木造曳舟、神の浦丸である。この船は、鈴木商店が播磨造船株式会社に発注し、大正4(1915)年8月1日に進水した。艤装工事中の大正5(1916)年4月25日、鈴木商店が播磨造船株式会社を買収し、商号を株式会社播磨造船所に改称している。本船は、大正5(1916)年6月17日に竣工し、二番船の吉備丸から大型鋼船の建造が続いた。本船及び拡張工事の写真に米マークを見ることができる。

大正7(1918)年8月21日、EASTERN SHORE (第八輿禰丸)の進水式に際し、鈴木商店金子直吉支配人は職員一同を集めて訓示を行った。播磨造船所50年史は、訓示をこのように記している。「楠正成が赤坂城で戦った時、城とは名ばかりで、何等の防御施設もなく、武器も道具も乏しかったが、正成を信頼する将兵は一丸となり、奇知を縦横に働かせて、よく数十倍にも及ぶ敵の大軍を悩ますことができたのである。播磨造船所も今まさに赤坂城にひとしく、設備も器具も未完成で、他の造船所に比べて誠に貧弱であるが、どうか諸君は部下をよく統率して知謀をめぐらし、先進造船所に負けないような立派な船を造ってもらいたい」

  • EASTERN SHOREの進水式 大正7(1918)年
  • 大正6(1917)年頃 播磨造船所拡張工事
  • 播磨造船所一番船 神の浦丸

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