⑤唐端清太郎頌徳碑

ハリマドックを創立した唐端清太郎

唐端清太郎は、文久2(1862)年、飾磨郡谷外村に生まれた。明治25(1892)年、相生村村長に招聘され、大正4(1915)年まで23年間にわたって町長・村長を務めるかたわら、明治36(1903)年から県会議員、明治40(1907)年に県会議長となり、大正6(1917)年には衆議院議員に当選した。

繁栄する神戸を見た唐端清太郎は、「船渠を造れば船が入り人が集まる」と考え、明治40(1907)年、神戸の財界人や地元有志から出資を募って播磨船渠株式会社を創立した。

播磨船渠株式会社は船渠建設を進めたが、技術の未熟さから船渠の底部が崩壊し、事業は高橋為久の播磨船渠合名会社に引き継がれた。このとき、旧会社の株券は葉書一枚の値段まで下がったといわれている。

明治45(1912)年、高橋為久は船渠を完成させ播磨造船株式会社を設立、次々と修繕船が入渠するようになった。しかし、経営は好転せず、規模が小さかったので第一次世界大戦による造船ブームにも乗ずることができなかった。

唐端清太郎は社運挽回をかけて、鈴木商店に買収を懇請するため、鈴木よね社主に面会を求めた。しかし、金子直吉から門前払いを喰わされてしまう。唐端清太郎は鈴木の門前に夜を徹して座り込み、金子直吉を動かすことに成功、大正5(1916)年4月、鈴木商店は株式会社播磨造船所を設立し、膨大な資本を投じて多くの船台を有する造船所を作り上げた。

相生の人々は、播磨造船所が「会社」という大企業になってからも、「わしらのドック」という気持ちを持ち続け、鈴木商店の社風と相まって、地域と会社が協力し合う気風が醸成された。昭和7(1932)年、浜口雄幸の揮毫による頌徳碑が建立され、戦後、周囲が雨香園として整備された。唐端清太郎は、今も港を見渡せる高台から相生の町を見守っている。

  • 唐端清太郎頌徳碑
  • 唐端清太郎 1862~1920
  • 昭和27年 頌徳碑から見る相生港

TOP