⑧佐多稲子文学碑

生で青春時代をすごした作家 佐多稲子

佐多稲子は、明治37(1904)年、長崎に生まれる。大正4(1915)年、一家は東京に転住し、佐多稲子はキャラメル工場などで働いた。大正7(1918)年、14歳のとき、播磨造船所で働く父を頼って相生に来る。

佐多稲子の父は、旧制中学校を卒業しており、播磨造船所の中堅事務職員であった。それから、大正9(1920)年まで、青春時代の二年間を相生で過ごし、再び上京する。東京で就職、資産家と結婚するが心中をはかり、大正14(1925)年、相生に戻って長女を出産している。大正15(1926)年、東京でカフェの女給となり、昭和3(1928)年、小説「キャラメル工場から」を発表、それから65年の長きにわたり多くの作品を発表した。

昭和15(1940)年に発表した「素足の娘」は、相生で過ごした青春時代をテーマにした作品である。佐多稲子が相生に移ってきた頃、播磨造船所は拡張を続けていた。佐多稲子は社宅街の建設を「そういう計画は、那波造船所のひとつを元に、まるで町を造るほどの意気込みに見えた。藪谷にはちゃんと飾り窓のある写真屋も店を出すし、本屋も出来るし、という工合に、今まで相生の町にもなかった新しい、いわば文化的な商売の店も出来てゆくのだった」と表現している。

播磨造船所の拡張期、鈴木商店から最初に相生に送り込まれ、事務系の責任者として活躍したのは若き日の北村徳太郎である。北村徳太郎は、昭和34(1959)年、随筆「播磨造船所50年史に寄せる」で、播磨造船所の草創時代を思想史的に考察した。そして、この随筆をこのような言葉で結んでいる。

「『播磨』からは、自分からは言いにくいことであるが、二人の大臣を出している。それは横尾龍君と私である。しかし、それよりももっと大きなことは作家の佐多稲子さんを出したことで、これは『播磨』としての大きな誇りでなければならぬと思う」

  • 昭和58年 文学碑除幕式のため相生を訪れた佐多稲子。
  • 相生で少女時代を過ごした頃の佐多稲子
  • 佐多稲子が長女を出産した頃の社宅街

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