⑫大久保貯水池
大里製糖所の用水(大久保貯水池)
大里製糖所は、鈴木商店の以後の事業拡大、繁栄への礎となった。同時期に日露戦争勃発。鈴木は、砂糖事業の大陸市場への進出を計画、さらに拡張した。拡張の動きにあわせ、製糖3社の合併話が進行し、明治40(1907)年「大日本製糖会社」が成立した。ここに、大里製糖所は大日本製糖大里工場へと変更された。
この拡張に伴い、最も必要な工業用水を大久保貯水池の買収によって確保するため、柳ヶ浦村民と農事灌漑水の契約を結び、明治39(1906)年大里村会がそれを可決した。明治41(1908)年、町制を施行した大里町は、製糖会社をはじめとする中央資本の工場進出が始まりだした。このため、住民の上水道の整備と共に、工場用水の確保は最重要課題であった。
しかしながら、町制施行後約10年の間に、町長が職務代理者も含めて6人も変わるなど町政は乱れていた。大正中期になると、ようやく町政も回復した。大正14(1925)年、大久保貯水池は、大日本製糖大里工場の工業用水確保のため築造された。送水トンネル口には当時の大日本製糖社長で財界の巨頭であった藤山雷太氏の手による「甘泉」の揮毫がある。