⑨小森江貯水池

鈴木商店の多角化が門司市の水道事業を後押し

鈴木コンビナートの成熟にともない従業員や工場関係者が増加し、大里の街は急激に人口増となっていった。大正中期になると、隣接する門司市との合併説が出だした。工場造成の成果から、大里の独立を主張するものもいたが、門司港・大里地区間の経済的、人的交流は年とともに進み、地理的にも境界には住宅が建ち並び、その区画がないほど事実上の統合が行われていた。

そして大正12(1923)年、大里臨海工場群立地区域の埋立てや水道敷設等の協定事項が合意し、門司市に編入された。この合併を機会に、大里地区の水道事業は、門司市の水道事業として本格的な取り組みがなされていった。

明治40年代、門司・小倉・若松の市街地において相次いで上水道事業が起工された。当時の大里は、まだ門司市に編入されていないため、その効果を受けることはなかった。門司市は、伝染病の発生や日露戦争勃発による門司地域の発展により上水道の必要性が生じ、内務大臣の認可を得て、明治42(1909)年小倉の福智に貯水池、門司の小森江に浄水場の建設に着手した。

ダムと浄水場を結ぶ導水管は16inch鋳鉄管で延長23kmに及ぶものであった。途中、鉄道軌道横断4カ所、河川横断伏せ越し8カ所がある。鋳鉄管はおおむね地表下1.5mに埋設し、公道の延長は7kmで、その他の延長16kmは民有地を幅約3m買収して専用導水路用地とした。当時の最先端の技術・設備が導入された。

その後、門司市は給水量の増加に対応するため新たな水源調査をし、福智貯水池と同じ紫川上流とする結論を得たが、財政上の理由から不可能となり、次の策として、小森江浄水場の東側300m地点の渓谷に小森江貯水池を建設した。福智渓の水源をもつ門司の水道は、「門司のおいしい水」として、当時国際港である門司の船舶給水に用いられ、函館、横浜、神戸港とともに『赤道を越えても腐らない水質』と外国航路の船舶に好評を得ていた。この水質の良さが全国に知られることとなり、その後の商工業の勃興を創出した。

門司・大里の住民をはじめ鈴木商店や関係企業の従業員達は当時の最高峰の上水道技術により、企業の発展はもとより家庭生活の安定を得ることができた。

  • 現在の小森江貯水池
  • 現在の頂吉貯水池の重力式コンクリートダム

    (門司市により福智ダムの隣接に昭和14(1939)年建設)

  • 建設中の小森江浄水場

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