⑥愛媛ゴルフ倶楽部(内子町)

高畑誠一が監修したゴルフコース


高畑誠一は、鈴木商店ロンドン支店勤務時代の大正元(1912)年頃から、健康のために横浜正金銀行ロンドン支店支配人の巽孝之丞の勧めもあり、ゴルフを始めた。当時ロンドンには200前後のコースがあり、遠くはスコットランドの世界最古のゴルフコース・セントアンドリュースにまで足を運んだ。土日ごとにプレーをし、体が丈夫になるとともにハンディ6の腕前になった。

大正10(1921)年、昭和天皇が皇太子の頃にヨーロッパ外遊をされた際、自らもメンバーであるロンドンのアジントンゴルフ場にて高畑がその接待係として選ばれた。これは当時の林大使が「ゴルフのことなら高畑くんに相談するのが一番いい」とのことで白羽の矢が立ったものである。高畑は前年度の全英オープンで優勝したハリー・バードンなどのプレーをご高覧いただいたのである。

高畑は、ロンドン時代に作らせたドライバーに傷が付くことを恐れてなんと靴下をかぶせた。高畑とプレーをともにした外国人は日本人の物を大切にする心に感心し、周りの者にも普及し浸透していった。このことで高畑は世界で初めてゴルフのヘッドカバーを考案した人物として知られており、この史実は英国で発行されている「ゴルフ百科事典」にも記述され広く認められている。

高畑は帰国後、日本アマチュア選手権に12回出場し、昭和6(1931)年に2位となり、関西アマでは2回優勝している。また、広野(兵庫県)などのゴルフ場の監修や日本で初めてのルールブックを作成している。その他、関西ゴルフ連盟を設立するなど日本ゴルフ界に多大な貢献している。

高畑は地元・内子町のゴルフ場(愛媛ゴルフ倶楽部 全27ホール 10,580ヤード)建設にも発起人として名を連ね、また、ゴルフ場の設計における監修も行っている。これは昭和47(1972)年、当時の内子町観光協会長の発案で地域の活性化や雇用促進等のためにゴルフ場建設の話が持ち上がり、高畑はそのゴルフ場建設事業に協力し、コース設計の監修においても具体的な設計のポイントとしてコース形状や池やバンカーの形状、各ホールに名前をつけること、コース脇への植栽など多くのゴルフに込めた想いを設計に求めた。そうして、3年後の昭和50(1975)年に「愛媛ゴルフ倶楽部」としてオープンして現在に至り、年間5万人がプレーするなど多くの利用者に楽しまれている。この愛媛ゴルフ倶楽部のクラブハウス内には、ロンドン時代の写真や高畑が実際使用したゴルフクラブなどが展示されている。

この愛媛ゴルフ倶楽部のゴルフ場建設においては、高畑は発起人代表として構想時から関わり、また他の発起人では帝人・大屋晋三社長(元・鈴木商店、高畑の朋友)、日本商工会議所・永野会頭、東レ・藤吉社長、丸善石油・宮森社長など財界の大立者がずらりであった。高畑は「一つ一つのホールに変化があり、世界中どこへ出してもひけをとらないオーソドックスなゴルフ場」として、この地元のゴルフ場建設に情熱を燃やし完成させたのであった。

  • 高畑誠一が監修した愛媛ゴルフ倶楽部(内子町)
  • 愛媛ゴルフ倶楽部内(内子町)
  • 高畑誠一が愛用したゴルフクラブ(内子町・愛媛ゴルフ倶楽部内)

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