②禅昌寺高畑家墓所(内子町)

高畑家の菩提寺禅昌寺


高畑誠一は、昭和53(1978)年9月19日に老衰のため神戸で亡くなった。墓は生家跡地にほど近い内子町禅昌寺にある。

高畑家は内子町ではかなり古い家系で、その源流をたどれば長宗我部家とともに土佐より入ってきたと言われ、高畑家には、大洲藩の殿様から授かった鹿の革でできた袴が今も大切に保管されているという。鈴木の大番頭・金子直吉の先祖ももとは伊予で長宗我部家に仕えた武将・金子備後守元宅であり、江戸期には土佐で商人となっている。

高畑は、「私の履歴書」の中で、「私の生家は内子ではかなり古い家系で、私の代で13代目になる。今でも故郷には先祖十四代の墓が残っていて番人が掃除をしている。ただ両親とも"家柄"のことなどに関心がなかったようで、家では家系のことはほとんど話題にならなかった。私も世間並みの一人息子の扱いを受けた程度である。家系図はいまも私の家に残っているはずだが、もう数十年も出してみたことがない」と書いている。

また元来高畑の名字は「たかばたけ」という呼び名であり、地元内子町には現在も「たかばたけ」と呼ぶ名字の家が多くある。しかし、高畑がロンドンにいた頃、フランス人が特に濁音の「ば」の発音がしづらいことから、外国人の発音のしやすい「たかはた」とし、帰国後も「たかはた」で通したと言われている。

また同寺には、高畑の同郷・先輩にあたり、フランス留学後、外務省通産局長や衆議院議員を4期務めた法学博士でもある重岡薫五郎の墓所もある。

  • 高畑誠一の墓所(内子町・禅昌寺)
  • 高畑誠一の墓所(内子町・禅昌寺)
  • 晩年の高畑誠一

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