羽幌炭砿にまつわる話シリーズ④「大手炭鉱も目を見張る羽幌炭砿の急成長」

「中小炭鉱の雄」の名にふさわしい実力を備えるまでに飛躍

羽幌炭砿が全道や全国から脚光を浴びるようになるのは昭和30年代からで、それまでは(さく)(ほく)の小規模なヤマに過ぎなかった。戦後、北海道の中小炭鉱といえば大和田炭砿(留萌市)、茅沼(かやぬま)炭砿(泊村)、東幌内炭砿(栗沢町)、高根炭砿(芦別市)などで、羽幌炭砿はその末席に甘んじていた。

羽幌炭砿は昭和25(1950)年の長期ストの終結を機に労使協調路線を歩み始め、徹底した合理化を進めた結果、1人当たりの年間出炭量も目に見えて増加し、終戦当時はわずか7トンであったのが、昭和26(1951)年の「鉄柱カッペ採炭」開始により15トンに、昭和28(1953)年の「大竪入(おおたていれ)」完成により昭和29年度21トン、昭和30年度27.6トン、昭和31(1956)年の「ベルト斜坑」の完成により昭和31年度には32トン余りに急伸する。この数字は当時の全国大手炭鉱平均の2倍近い出炭効率であった。

羽幌炭砿が世間から「中小炭鉱の雄」と呼ばれるようになるのは昭和30年前後からではないかと推察するが、このことは出炭量、出炭効率ともに飛躍的な伸びを示し、強靭(きょうじん)な体質を誇る同社こそがその名にふさわしいと世の中に認められたことに他ならないだろう。

炭鉱は、不利な立地条件であればあるほど住環境の水準を高める諸施設の充実が要求される。羽幌炭砿においては、昭和30年代の労務管理業務の多くが福利厚生面の整備・強化に向けられた。昭和35年当時の1人当たりの法定外福利費は築別砿業所が7,051円/月、羽幌砿業所が4,916円/月で、全国の石炭企業の平均2,322円/月と比較すると築別炭砿は3倍、羽幌本坑は2倍の高水準であった。

石炭は1㌧20円で支給、炭鉱住宅の家賃は不要、電気料金・水道料金も固定部分は会社負担、入浴料も無料。会社は炭鉱地区の各学校に対しても、設備・教材をはじめ物心両面にわたる支援に力を尽くした。このように、羽幌炭砿は福利厚生面においても「中小炭鉱の雄」の名に恥じず、炭鉱コミュニティの生活水準は都会のそれに決して引けを取らなかった。

羽幌炭砿の全国および北海道の炭鉱の中での位置づけを見てみよう。『石炭政策史』(石炭政策史編纂委員会編)などの統計から全国炭鉱の過去の年間最大出炭量を比較してみると、突出したトップが三井三池炭砿(大牟田市)で657万トン、2位以下は太平洋炭砿(釧路市)や北炭夕張炭砿、常磐炭砿(いわき市)など数社が200万トン台で続き、後は100万トン台となる。羽幌炭砿の113.3万トンは三井芦別炭砿、三菱美唄(びばい)炭砿、三井砂川炭砿、住友奔別(ぽんべつ)炭砿などの150万トンクラスに次いで、北炭夕張新炭砿、三菱大夕張炭砿、北炭平和炭砿などと同レベルに位置していたと見られる。

因みに、羽幌炭砿が過去最高の出炭量を記録した昭和43年度の全国の総出炭量(4,628万トン)、北海道の総出炭量(2,127万トン)に対する同社の出炭割合は全国比で約2.4%、北海道比で約5.3%であった。

羽幌炭砿にまつわる話シリーズ⑤「採炭方法・採炭機械の進歩」

  • 油圧式カッペ
  • 出抗風景
  • 羽幌炭砿鉄道(株)の社章(レールと鶴嘴(つるはし)を図案化したもの)

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