築別炭砿の「ベルト大斜坑連絡坑道」の坑口
「ベルト大斜坑」から地上の原炭ポケットまでを連結する予定であった連絡坑道の坑口
築別炭砿の「ベルト大斜坑連絡坑道」は、当初昭和41(1966)年2月までに「ベルト大斜坑」(以下「大斜坑」)を完成する計画の下で、大斜坑から原炭ポケットまで連結する予定であった連絡坑道であり、その坑口は坑口浴場の南東側すぐの所に位置していた。
石炭から石油へのエネルギー革命が急速に進行する中、政府は昭和38(1963)年以降「スクラップ・アンド・ビルド政策」により全国の炭鉱の計画的な生産合理化と閉山を推進した。
この結果、出炭効率で全国1、2位を誇って来た羽幌炭砿は「ビルド鉱」として認定され、生き残りをかけ羽幌本坑の運搬立坑、新選炭工場、排気立坑の建設など各種合理化に全力を傾注していった。
一方、主力坑である築別炭砿においても老朽化した坑内の出炭・運搬坑道を近代化かつ単純化すべく、昭和38(1963)年7月から3カ年計画で大斜坑の掘削工事に着手した。
大斜坑は、地上の選炭場から優良炭が埋蔵されている切羽(採炭現場)の最深部である"九片"までを一本の斜坑(総延長2,600メートル)で繋ぐことにより、それまで複雑多岐にわたっていた築別炭砿深部の石炭運搬システムに代わる石炭搬送の一元化を目的としたものであった。
大斜坑の坑口は太陽小学校のグラウンドの北東に設け、大斜坑から選炭工場に繋がる原炭ポケットまでは「ベルト大斜坑連絡坑道」(約200メートル)で連結し、石炭および鉱員はベルトで搬送する予定であった。
大斜坑の本格的な掘削は昭和39(1964)年春から開始し、昭和41(1966)年2月までに完成させる計画で、完成の暁にはそれまで以上に優良高能率のヤマとして全国的に脚光を浴びる予定であったが昭和42(1967)年2月11日、会社は生産協議会の席上で突然"ベルト大斜坑掘削工事"の中止を発表した。
工事断念に至った理由は、築別鉱業所長の説明によれば「難工事で何億円という巨費を投下しても、正確な投資効果の見通しが立たない」というものであったが、この工事は築別炭砿深部開発の決め手として全従業員に大きな期待を抱かせるとともに、すでに3億円もの巨費を投じていただけに工事中止の発表は一転して従業員の不信感・不安感を招く結果となった。