⑰殉公碑
羽幌炭砿の殉職者、戦没者の慰霊碑
昭和30(1955)年9月25日、羽幌炭砿は炭鉱の事故による殉職者と戦場で亡くなった従業員の霊を慰めるため、築別炭砿の大山祇神社(おおやまづみじんじゃ)社務所近くの高台に「殉公碑」(じゅんこうひ)を建立した。
※『殉公碑』の文字の揮毫者は、羽幌炭砿の初代社長・岡新六である。
以後毎年9月の第3日曜日に殉公碑前あるいは「築炭会館」において「殉公祭」(慰霊祭)が執り行われた。因みに昭和42(1967)年当時の合祀者は239柱(内戦没者44柱)であった。
昭和32(1957)年7月22日、羽幌炭砿創業以来最大の栄誉とも言うべき高松宮殿下ご夫妻ご来山の際、ご夫婦は築別炭砿の坑内を視察された後、殉公碑のある高台まで上がられ、会社スキー部のジャンプ選手・笠谷昌生(札幌オリンピック70m級ジャンプ金メダリスト・笠谷幸生の実兄)らの介添えで植樹をされた。
殉公碑は閉山後の昭和52(1977)年5月1日、「羽幌会」(元羽幌炭砿の有志と協力賛同者により構成)の手によって現在の羽幌町役場の南東方向にある羽幌霊園に移設され、御霊が懇ろに弔われた。
昭和52年5月の「広報はぼろ」(羽幌町の広報誌)の一面には写真とともに次のとおり記述されている。
「小雨のふる、肌寒い中で町霊園にて、元羽幌炭砿従業員300人の手で、旧友のまつられている殉公碑の除幕式が行われました。この殉公碑は、築別炭砿に建てられていたが、訪れる人も少なく孤立していた。町霊園が造成されたのを機に元羽幌炭砿従業員で組織している「羽幌会」が中心となり移設工事を進め、5月1日の除幕式のはこびとなったものです。この日は、除幕式後、会場を武道館に移し、「羽幌会」の総会が盛大に行われ、炭砿閉山以来の再会を懐かしむ光景がいたるところに見られ時間の過ぎるのも忘れ思い出話が行われていました。」
殉公碑のすぐ横には、「羽幌会」の町田叡光元社長の文章が刻まれた石板が設置されている。最後に、その文章を紹介しておきたい。
「当羽幌町内の炭田は、昭和十五年七月羽幌炭砿鉄道株式会社により開発に着手。最盛期には、年間出炭量百万屯を越え、これに従事する者三千余名、また炭鉱地区の住民も万余を算するに至った。然し、経済界の変動、特にエネルギー事情の急変は、当炭鉱の存在を許さず、昭和四十五年十一月閉山の止むなきに至り、築別鉱、羽幌鉱、上羽幌鉱の所謂炭鉱三山地域は廃墟と化し再び無人の山野に帰するに至った。元炭鉱従業員有志と協力賛同者による羽幌会は、炭鉱操業中の殉職者並に戦没者の霊を祀るこの殉公碑の祭祀の絶えるを憂い、羽幌町はじめ関係者の協力を得て、昭和五十二年五月旧炭鉱山元所在の殉公碑並に地蔵尊を此の地に移し再建した。昭和五十四年四月 羽幌会 町田叡光謹書」