築別炭砿の火力発電所
炭砿の電力供給を支え続けた火力発電所
築別炭砿は昭和16(1941)年12月14日に待望の羽幌炭砿鉄道が完成し、徐々に石炭増産体制を整えつつも、動力源である電力と採炭用機械の絶対的な不足から、手掘りという創業当時からの原始的な採炭方法を余儀なくされ、出炭量は低迷を続けていた。
会社はこの根本的な課題を解消するため、まず昭和17(1942)年3月、120kWの発電機を設置し、30馬力巻上げ機とポンプをそれぞれ数台導入した。さらに昭和18(1943)年1月、辰巳橋の南西方向に1,000kWの発電機を備えた火力発電所を建設し、あわせて105馬力巻上げ機2台、100馬力巻上げ機1台、空気圧搾機などを導入した。これにより出炭量は漸く増加傾向を示し始めた。
その後はこの発電所の電気と、留萌方面から国鉄羽幌線に沿う形で炭砿まで引いてきた北海道電力の電気を合わせて使用していた。
しかし、昭和20年代半ばからの出炭量の急増に伴い再び電力不足が顕著となったため、会社は昭和30(1955)年、発電所に1,000kWの発電機1機を増設し、非常時に備えた。
さらに、電力不足を抜本的に解決するため、昭和34(1959)年8月初旬には独自に曙に変電所を建設し、ほぼ同時に完成していた北海道電力「雨竜発電所―築別炭砿」間の送電線により築別炭砿の新選炭工場の運転開始と同時に送電を開始した。なお、築別炭砿変電所、羽幌本坑変電所も同時期に完成した。
その後も三山(築別炭砿、羽幌本坑、上羽幌坑)合計の出炭量が年産100万トンを超えるまでに増加したことから、火力発電所は引き続き貴重な電力供給源として昭和45(1970)年11月の炭砿閉山まで稼働し、炭砿の電力供給を支え続けた。
なお、発電所は鉱員の出勤時と昼時の合図として、また炭坑の事故発生時に保安隊や救護班に急を知らせる合図としてサイレンを鳴らすという重要な役割も担っていた。
今も辰巳橋から南西の方角に目を向けると、火力発電所の巨大な煙突が聳えている。