羽幌炭砿にまつわる話シリーズ②「築別炭砿の労働争議」
石炭企業初の無期限ストに突入
昭和20(1945)年11月23日、築別炭砿に北海道では3番目の労働組合として「築別炭砿従業員組合」(昭和23年7月、「築別炭砿労働組合」に改称)が発足した。
戦後、GHQ(連合国総司令部)は封建思想を一掃し民主化を推進すべく、労働組合の結成を始めとする労働運動を奨励した。しかし、組合活動は次第に共産党色が濃くなり、全国的に炭鉱ストが頻発する。築別炭砿の労組も、当時全国の過激派労組の代表格であった炭労(日本炭鉱労働組合)に加盟し、労使間の交渉という枠組みを超えて次第に活動が先鋭化し、ヤマは無秩序状態になっていった。
昭和25(1950)年の春先から始まった一部の組合員の活動には目に余るものがあり、通告なしの違法ストが頻発するようになる。同年3月の炭労本部司令による24時間スト、48時間ストをはじめ、時間外作業拒否の山猫ストなどストに明け暮れる毎日であった。
労使双方は強硬姿勢に終始し、9月に入り会社が共産党に同調する労組幹部3名を就業規則違反で解雇したことから、ついに労組側は9日から無期限ストに突入した。
一方でストに対する非難の声も高まり、スト反対派の民主化連盟は労組を脱退し、「築別炭砿従業員会」を結成。その後、労組側は闘争を活発化させ、9月25日朝5時、スト反対派の入坑を阻止するため主婦たちを巻き込んで事務所を占拠して約200名のピケ・ライン(スト破り防止の監視線)を張り、従業員会のメンバー、寮生、職員たち約150名と激しく衝突し乱闘状態となった。
その後、従業員会への加入者が増加するとともに労組執行部は組合員から完全に遊離し、司令も徹底されなくなる。10月1日、従業員会は正式に「築別炭砿従業員組合」(第二組合)として発足。同日、中立派約70名も第三組合を結成。(その後、第三組合は消滅する)
翌10月2日午前2時、事態を重く見た旭川地検次席検事、検事2名、副検事、国家地方警察旭川方面隊警備部長、刑事部長、留萌市警察次席以下武装警官12名、羽幌町警察署長以下警察官33名が現地に到着して警戒にあたり、検事一行はピケの状況を視察し、町警署長は生産を阻害する本坑坑口付近でのピケを解散するよう勧告した。
10月3日午後2時、ついに威力業務妨害の容疑で司法権が発動され、ピケを張っていた組合員のうち10名が逮捕された。同日、炭労道本部から委員長が入山してピケ打ち切りを決定し、会社に対し平和交渉を申し入れた結果、8日に会社側と労組側の団体交渉が炭労斡旋案を軸に行われ、争議終結に関する協定書に仮調印した。一方、労組側は臨時大会を開催してスト中止を決定し翌9日、協定書に正式調印。スト突入以来1カ月にわたる争議はようやく終結した。
その後、GHQによって行われたレッド・パージにより組合の性格は大きく変化し、昭和26(1951)年1月18日、労組と従組は統合して「築別炭砿労働組合」となり炭労を脱退する。
この一大争議の終結を機に会社と組合は共存共栄の道を歩みはじめ、その後全国の炭鉱ではストが頻発していたにもかかわらず羽幌炭砿では1回のストもなく、徹底した合理化・技術革新を推進し、全国に「中小炭鉱の雄」の名を知らしめることになる。この長期ストを抜きに羽幌炭砿のことは語れないと言われるゆえんである。