④日比港
北前船の寄港地として栄えた瀬戸内海航路の要衝
日比港は、古代から港として本州四国間の船の往来があり、また中世になると商船の出入港も多くなった。
江戸時代には、瀬戸内航路の重要な港として指定され、廻船業も盛んになった。また、日比は応永27年(1420)に朝鮮使節の宋希璟一行も寄港しているように、瀬戸内海の航路の要地であった。
日比港は,港の規模が大きく,水深が深いことや,船底についた貝類などを落とすための焚場(たでば)という船の維持管理施設があったことから,交易そのものもさることながら,交易を側面的に支える 港として重要な役割を果たしてきたとされる.
文安2年(1445)における関税台帳である『兵庫北関入舩納帳』によれば、兵庫北関(現神戸)へ日比船籍の船が計九回、入港していることが確認できるという。その積荷は、児島産の児島塩をはじめ、米や大麦、小鰯、紙であり、日比の船は児島を中心に周辺の物資を輸送していたものと思われる。文政2(1826)年、日比に上陸したシーボルトは、「江戸参府紀行」に塩田とタコ漁の様子を書き残している。
また幕末には北前船も塩を購入するために来航するなど, 様々な交易の記録も残されており物流港としての日比港の役割が高まった。北前舩が活躍していた明治時代中頃まで日比には、廻船問屋に旅館や遊郭が軒を連ねる潮待ちの湊としても栄えた。潮待ちとは,木造帆船が主であった北前船が潮流を利用し効率的に 航行するために,潮の流れが変わるのを港で待つことである。
日比港は、近年宇野地区が整備され、連絡船と鉄道が輸送の主流となったことで衰えていった。現在は共同岸壁の物専岸壁と日比共同製錬の専用岸壁に、漁港とプレジャーボート用のマリーナ整備等が進められているなど産業とレジャーが混在する港へと姿を変えている。