太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑦

創立11年目にして生産、販売ともにモリブデン業界第1位の座に就く

日本経済は昭和33(1958)年に「鍋底景気」から脱すると、2年前の「神武景気」をもしのぐ好況が到来した。昭和36(1961)年にかけての「岩戸景気」である。日本の鉄鋼業は昭和34(1959)年にはフランスを抜いて世界第5位の粗鋼生産高を記録するとともに、特殊鋼の生産も自動車、電気機器といった耐久消費財や産業機械などの需要の伸びに対応して増大し、昭和35(1960)年にはイギリス、フランスを抜いて世界第3位の地位を確保した。

これに伴い、日本国内のモリブデン鉱石の消費は飛躍的に伸び、輸入禁止の措置がとられていたモリブデン鉱石は昭和34(1959)年6月から再びF・A制度(民間業者への外貨割当制)の下で輸入が再開された。輸入鉱石の優位が揺らぐことはなかったが、国内のモリブデン鉱山が最もよく稼働したのはこの時期であった。

大東だいとう鉱山では昭和32(1957)年4月、初代の谷治之助鉱山長に代わり、武田亮輔が鉱山長に就任すると同年6月、大東鉱山は「大東鉱業所」に改称され、月産18トンから20トンにおよぶモリブデンの生産体制が確立された。

昭和34(1959)年に生産のピークを迎えた大東鉱業所は、同年のわが国の硫化モリブデン鉱石生産量719トンの約38%を占める273トンの生産高を記録した。ちなみに、この年の輸入鉱石量は1,633トンであり、わが国のモリブデン鉱石の自給率は31%という高率を示した。

※その後は輸入鉱の比率が高まり、昭和35(1960)年以降、モリブデン鉱石の自給率は約15%前後となる。

大東鉱業所における硫化モリブデンの生産高は昭和34(1959)年から昭和37(1962)年にかけて年間200トン以上となり、赤穂工場で自家焙焼されたほか、昭和電工、日本鋼管(現・JFEスチール)など他のメーカーへも出荷された。

昭和34(1959)年、同社はかねてより懸案であった生産の合理化計画(赤穂工場への生産集中策)を実行に移した。すなわち昭和35(1960)年3月、仙台工場で行われていたフェロモリブデン、フェロバナジウムなどの主力製品の生産を赤穂工場に移行し、硫化モリブデンからフェロモリブデンまでの一貫メーカーとしての生産体制を確立した。

これに備えて赤穂工場では昭和33(1958)年10月、脱硫回転炉(二次焙焼炉)(*)が完成。この脱硫回転炉は同工場の浅野貞次郎工場長と佐藤直彦第一生産課長によって研究・開発されたもので、この回転炉によるモリブデン鉱の脱硫法(硫黄分・硫黄化合物を除去する方法)は昭和34(1959)年1月に特許が出願され、同36(1961)年3月に確定した。また、昭和34(1959)年1月には同工場の焙焼炉3,4号が完成した。

(*)この脱硫回転炉による二次焙焼(脱硫)は昭和34(1959)年から導入した新製品、モリブデン・ブリケットの生産に際し、硫黄規格の品質管理の点で大いに奏功する結果となった。また、脱硫工程において焼結する三酸化モリブデンは昭和37(1962)年以降、新製品モリブデン・クリンカーとして本格的に販売が開始されることになる。

当時、わが国では含モリブデン鋼生産のために添加されるモリブデンの形態はフェロモリブデンに限られていたが、アメリカではすでに酸化物のまま添加するモリブデン・ブリケットが主流となっていた。この情報を来日中の米国・アマックス社の副社長より入手した太陽鉱工は昭和34(1959)年9月、アマックス社の協力を得て赤穂工場にモリブデン・ブリケット成型設備を完成し、10月より販売を開始した。

モリブデン・ブリケットは従来のフェロモリブデンに比べて単価が安く、鉄鋼への添加方法も容易で歩留においても遜色がなく、経済性においても有利であったため短期間に爆発的な需要が起こり、1年後にはフェロモリブデンとモリブデン・ブリケットの使用比率は完全に逆転した。

太陽鉱工は各鉄鋼メーカーに向けてモリブデン・ブリケットのPRを推進するとともに、通産省に海外鉱石輸入のための外貨割当増額を陳情した。赤穂工場はモリブデン・ブリケットの生産に追われ、昭和35年度のモリブデン・ブリケット(759トン)とフェロモリブデン(181トン)の合計生産量940トンは前年度比196%の増加という驚異的な数字を実現するとともに、一方で同社は業界で最も多い外貨割当を受けることとなった。

こうして、太陽鉱工は生産実績、販売実績ともにモリブデン業界第1位の座に就いた。同社創立11年目のことであった。

太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑧

  • 大東鉱業所事務所
  • 赤穂工場の脱硫回転炉(二次焙焼炉)
  • モリブデン・ブリケット

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