太陽曹達(後・太陽産業、現・太陽鉱工)の歴史⑩
使用済触媒からモリブデン、バナジウムを抽出する再資源化事業に着手
昭和45(1970)年、太陽鉱工は創業以来の功労者である橋本隆正専務を失うという悲運に見舞われる。橋本は同年9月30日、9カ月にわたる闘病の末に遂に帰らぬ人となった。
橋本は大正7(1918)年3月、神戸高商(神戸高等商業学校)を卒業し同年4月、合名会社鈴木商店に入社。冶金部を振り出しに太陽曹達東京支店長、同社大連出張所長、鈴木商店大連支店支配人代理等を歴任し昭和9(1934)年2月、再び太陽曹達に復帰。昭和19(1944)年2月に太陽産業取締役、同年5月に常務取取締役に就任し、経理責任者として戦時下の困難な時期を乗り切った。
昭和24(1949)年3月、太陽鉱工創立と同時に常務取締役、昭和32(1957)年には専務取締役に就任。高畑誠一社長が日商の会長をはじめ多くの要職を兼務する多忙の身であったことから、実践面では橋本が陣頭指揮をとり、同社の発展に尽くしてきた。
金子直吉は絶えず神戸の自宅に書生を住まわせ、衣食等をわが子(文蔵、武蔵ら)と同様にするなど家族同様に遇して勉強させ人材の育成に努めたが、彼等の多くは全国の有名大学を卒業し、実社会でも成功する者は枚挙に暇がなかった。
※金子直吉の教育方針について、小野三郎(帝人製機社長)は次のように語っている。
「金子さんの学生養成法は常人と異なり、勉強せよとか人をして監督させるとか一切せず、全く放任主義で各人の進路についても自由だった。技術、経済、法律等己が好む所に向わせて一切干渉しなかった。・・・・ 金子さんは向学心に燃えている人、家庭の事情で進学出来ぬ人には惜気もなく学費萬端世話をする。而(しこう)して、その酬いを一向求めない。」
太陽鉱工に勤務した橋本や後記の金月弘も金子家の書生の一人であり、橋本は金子の次男・武蔵(後・東京大学教授)の家庭教師をしながら勉学に励むという向学心の持ち主で、19歳のときから金子夫妻に育まれて人間的にも成長し、金子直吉への深い感謝の気持ちを片時も忘れたことはなかった。
柳田義一(柳田富士松の長男)を中心とする辰巳会本部にて編集され、昭和47(1972)年1月に発行された「金子直吉遺芳集」は、昭和39(1964)年の春に橋本氏の発意と熱意からスタートしたもので、橋本は5年の歳月をかけて金子の遺墨収集に精魂を傾けたが、上梓の一歩手前で病魔に侵されたのであった。
この遺芳集には橋本の遺稿ともいうべき「人間金子直吉翁と私」(*)と題する序文が掲載されており、そこには金子直吉の深い情愛や豊かな人間性が余すところなく描かれており、慈父ともいうべき金子に対する橋本の尊崇の気持ちが横溢している。
(*)この「人間金子直吉翁と私」は、「松方・金子物語」(藤本光城著、昭和35年6月1日発行)中の「回想の松方・金子翁」にも掲載されている。
昭和45(1970)年11月9日、臨時株主総会において新しい経営体制が定まった。社長の高畑誠一が会長に、専務の鈴木治雄(昭和44年10月11日、常務から専務に昇任)が取締役社長に就任したほか、専務取締役に松岡俊一、常務取締役に金月弘、西川栄一が就任した。
昭和46(1971)年4月、フェロモリブデン、フェロバナジウムの需要増大に対処するとともに、生産の合理化によるコスト低減を目的として赤穂工場で建設を進めていた新テルミット工場が完成した。新設された4基のテルミット炉は1チャージ2~2.5トンという世界最大規模のもので、これによって同社のフェロアロイの生産能力は飛躍的に拡大した。
同社は昭和40年代後半から使用済触媒からモリブデン、バナジウムを抽出するという再資源化事業に本格的に取り組んだ。重油中にバナジウムなどの希少金属(レアメタル)が含有されていることは早くから知られており、同社でも伊予工場において重油燃焼滓からバナジウムを抽出する事業を行っていたところであった。
石油精製工場で脱硫(硫黄分・硫黄化合物を除去する)工程に使用する触媒はモリブデン、コバルト、ニッケルなどを原料とし、その使用済触媒には重油中のバナジウムが多量に吸着しており、同社では昭和40年代当初よりこの使用済触媒からモリブデン、バナジウムを回収する技術開発を進めていた。
昭和46(1971)年10月、同社と同様の事業プランを進めていた大豊化学との間に共同事業化構想が持ち上がり、協議の結果昭和47(1972)年10月2日、両社の合弁により泰和株式会社が設立され、わが国で初めて使用済触媒からモリブデン、バナジウムの再資源化を目指す事業がスタートした。同年10月21日、坂出市(香川県)に使用済触媒の処理能力1,000トンの第1期工場が完成した。
使用済触媒という"第2の鉱石"からの再資源化事業が緒に就く一方で、実際のモリブデン鉱石を30年間掘り続けてきた大東鉱山は、もはやアメリカやカナダなどの大規模な露天掘り鉱山で生産される低価格の海外鉱石に対抗する術はなく、残鉱を細々と掘る状態に陥り昭和48(1973)年9月、遂に閉山を迎えた。
昭和46(1971)年当時、亜硫酸ガスによる大気汚染が大きな社会問題になり、各業界では次々に排煙脱硫、重油脱硫等低硫黄化装置の建設に取組んだ。これらの装置が稼働した暁には、使用される触媒量は約10,000トン、またこれらの触媒が劣化した場合の使用済触媒量は約16,000トンにも上るものと推定された。
同社はすでに前記の泰和を発足させてはいたが、その処理能力では到底この大量の使用済触媒を処理し得ないものと判断し、工場の増設を検討していた。そのような中、昭和48(1973)年3月に日本鉱業から使用済触媒からのモリブデン、バナジウム回収事業に関し正式に業務提携の申し出があり、鋭意検討の結果同年7月、合弁会社設立に関する合意が成立した。
日本鉱業は米国の触媒メーカー、フイルトロール社の技術を導入し、触媒メーカーとして子会社、オリエント・キャタリスト社を設立しており、同社のユーザー対策の一環として使用済触媒の回収に乗り出そうというものであった。新会社は同社の「太陽」と日本鉱業の「鉱業」を組み合わせサンマイン株式会社と命名され、昭和49(1974)年1月に発足した。