神戸製鋼所設立の歴史①
鈴木商店による小林製鋼所の買収
明治34(1901)年、政府は八幡製鉄所を建設した。民間による製鋼業進出も試みられたが、その殆どが半年ばかりで失敗に終わっていた。小林製鋼所もその一社である。
東京の書籍業者・小林清一郎は、呉海軍工廠に勤務する海軍少技監・小杉辰三の勧めにより、小林製鋼所を設立して製鋼業に進出。小杉も退官し、海軍工廠の優秀な職工5名を引き連れてイギリスのビッカース製鋼会社にて1年間研修を積んだ。鈴木商店は、同社の工場建設に際して、英国から工場建設用機械の購入に協力している。
明治38(1905)年、来賓を招いての出鋼式は炉の口がふさがり失敗に終わった。小林は、製鋼業が技術の蓄積と巨額の資金を要する容易な事業ではないことを痛感し、開業間もなく工場を身売りする決意をする。
鈴木商店は、小林製鋼所に対して、建設資材融資15万円の他に建設途上の投資が40万円以上になっていたことから、金子直吉は小林製鋼所の経営を引き受けることになる。
実は金子は、小林製鋼所を本気で買収する気はなかった。当時、鈴木商店は薄荷、樟脳、砂糖という軽工業を中心に展開し、次は紡績業への進出を企てていて、ちょうどその頃、西宮紡績が売りに出された。ただし、当時住友樟脳の買収、大里精糖所が建設中と資金が不足していたため、長期年賦による買収の機会を探っていた。しかし、とある日、金子は西宮紡績が内外綿会社に自分の考えた以上の好条件で売られたという新聞記事を目にした。金子は放心状態になり、「トビに油あげをさらわれたようなものだ」と悔しがった。ちょうどその時、小林製鋼所の買収の話が飛び込んできた。当時のことを金子は、「西宮紡績を取られて、脳神経がマヒ状態であって、製鋼業の至難なことも、大資本を要することも一向頓着なしにすらすらと引き受けてしまった。」と振り返っている。