神戸製鋼所設立の歴史③
赤字続きの創業期、依岡省輔の起用による呉海軍工廠への納入
日清・日露戦争を経て、日本の鉄鋼需要は増大し、特に兵器、艦船は可能な限り国産品にて賄う方針のため、国内の関連生産能力は拡大を続けた。中でも、呉海軍工廠の職工は明治36(1903)年の1万2,000人が大正元年(1912年)には2万1,000人に増え、馬力数も同期間に9,600馬力から6万馬力へと急拡大した。
神戸製鋼所が赤字から脱するためには、この呉工廠への納入の可否が重要となっていた。ここで活躍するのが金子直吉の人脈である。金子は、同じ神戸の財界で活躍する松方幸次郎とは昵懇の仲。父は松方正義首相で薩摩出身。松方正義の親友に同じ薩摩出身で吉井幸蔵がいた。吉井は薩摩の名門出身で貴族院議員、かつ海軍の大物。金子は吉井に度々、神戸製鋼所の赤字の話をしていた。
ある時、吉井が呉鎮守府長官山内中将に会った時、神戸製鋼所の赤字の話に及び、山内は「そんなに困っているのなら、海軍が世話してやってもよい」という話になった。この話を受け、金子が海軍との折衝に送りこんだのは、同じ土佐出身で「自分の得意は知事や将軍を説きふせること」と飛び込みで自分を売り込んだ依岡省輔である。
明治42(1910)年、依岡は呉に派遣されると、一流の吉川旅館に陣取り、ときの鎮守府参謀長竹内少将、工廠長伊地知少将、砲煩部長有坂大佐、工務主任伍堂少佐ら関係幹部を招いて宴席を設け、派手な外交を始めた。依岡の外交活動を有利にしたのは、依岡の同郷である土佐の先輩・後輩が海軍に相当有力な地位を占めていること、そして吉井伯爵の信用があったからでもあるが、依岡の外交手腕も大きい。依岡は土佐人脈を活かし海軍の兵器の情勢、高官の動静などを知るとともにその外交活動に宴席をうまく利用した。
ある時、九州の旅行先から京都の料亭へ電話して、なじみの庸という芸者を呼び出し「何日の何時にこういう格好の紳士が東京から来られるから、京都駅までぜひ出迎えるように、そしておれが行くまでそそうのないようにお相手をしておいておくれ」といった。この庸という芸者はよく機転がきいて、依岡のいうようにもてなし、依岡の外交チャンスをとらえてくれたという。
そして、造兵関係の砲煩部の随意契約を受注。第一回目の試作品は予想以上の評価を得た。その後、呉だけではなく、舞鶴、横須賀、佐世保海軍工廠からも受注を受け、海軍とのパイプは強くなり、神戸製鋼所の発展を支えていくことになる。尚、吉井伯爵は神戸製鋼所の監査役に、依岡省輔は専務取締役に就任する。