⑥楊柳亭
老舗料亭を舞台に佐賀紡績の設立構想が練られた
楊柳亭は、明治15(1882)年5月、岸川平左衛門が創業し、屋号は『新川崎屋』と呼んでいた。初代佐賀県知事鎌田景弼は政務に多忙であったが、鋭気を養うためよくここに通っていた。しだれ柳の多かった場所にちなんで『楊柳亭』と同知事が命名した。
鎌田知事は、熊本出身で42歳の若さで就任し5年2ケ月の在任であったが、豊かな実力と豪放の性格で、県政発展に尽くした人であった。なかでも、当時博多ー久留米間の鉄道開通について努力し、『佐賀にも一つ位駅がなければ』とのことで鳥栖駅が設置されたといわれている。
楊柳亭は、佐賀紡績の設立構想の段階から度々会合の場所として利用された。佐賀紡績設立に際し、伊丹弥太郎(栄銀行頭取、東邦電力社長)、古賀善兵衛(古賀家三代目、古賀銀行頭取)、吉田久太郎(百六銀行頭取)、古賀製次郎、野口能毅(佐賀市長)の地元有力者5名により、大正5年4月5日に「楊柳亭」において発起会を開くと報道された。(大正5年3月30日付 福岡日日新聞)
さらに発起人某は鈴木商店の経営参画を切望し、鈴木商店総支配人と「楊柳亭」に於いて会談した記録が残されている。(佐賀新聞 大正5年8月21日付記事 「佐賀紡績設立を見ん神戸某商会の一大後援」)
同記事の一部を抜粋:「・・・然るに先月(7月)14日に至り、神戸なる某実業家*1においては佐賀紡績の設立に就いては大に賛成なり。とにかく長崎に出張すべき総支配人某*2をして帰途佐賀へ差向く可ければ・・・・。依って某発起に於いては急遽唐津の避暑地より帰佐し、同支配人の来佐を待ち受け、一夕楊柳亭に於いて之と会見し、種々佐賀紡績設立の計画に就き談合する所あり・・・・」 (*1は、鈴木商店、*2は、井田亦吉を指す)
鈴木商店は、当時、佐賀―久留米間の「肥筑軌道」の設立計画にも関与していたこと、大里製粉所で用いるメリケン粉袋の自給の必要性からも佐賀紡績への経営に関心を持ったと推測される。