②佐賀紡績(現・どんどんどんの森)
佐賀の経済的繁栄を期待され、近代化をけん引した紡績業
大正5年(1916)12月、地元の有志によって佐賀紡績株式会社が、資本金300万円で創立された。鈴木商店は、当初、同社向けイギリス製紡績機の輸入商談から関係が始まり、やがて地元有力者の要請を受け経営に参画した。
佐賀紡績開業時の役員は、取締役社長に鈴木との接点もある橋本喜造が、専務取締役に井田亦吉(鈴木)、取締役には鈴木側より土屋新兵衛、竹村房吉が、地元財界から伊丹彦次郎、福田慶四郎、古賀製次郎、原真一が就任したほか、長崎政財界に関わりが深い川副綱隆が加わった。監査役には鈴木側から森衆郎が、地元より吉岡卯八、副島延一が当たった。工場責任者である支配人には鈴木側より波多野恕吉が就いた。さらに相談役には金子直吉と共に佐賀市長の野口能毅が就任し、佐賀市としても全面的な支援体制を取った。
当初、紡績機20,000錘、織機300台を以て操業予定したが、機械輸入が難航したため、当時鈴木商店がインド・ボンベイ(現・ムンバイ)より買い付けた英国製中古紡績機7,000錘を急遽買収し、国産織機300台を加えて操業に漕ぎつけた。さらに増設計画を進め、大正8(1919)年10月末には、紡績機19,500錘、撚糸機3,600錘、織機408台を数え、さらに増設計画を立て、翌春の大正9(1920)には、紡績機32,000錘、撚糸機4,300錘、織機408台の運転を予定した。
大正9(1920)年には男子300名、女子1,200名の工員を擁する大工場となった。工場敷地面積27,014坪、建物6,150余坪、他に職工社宅(連棟住宅)72軒を建設。当時の佐賀市郡の企業の中では、最大規模の工場であった。 大正8(1919)年下半期の営業成績によれば、市況の好調から総収入1,357,790円、総支出1,106,500円、差引251,290円の利益金を挙げ、1割3分の配当を実行した。
その後も業績は順調に推移し、年2割5分の配当を見込む程好調を維持、鈴木商店の経営振りが注目された。
しかし、その後の不況で業績が悪化、大正末期には操業が停止された。
昭和3(1928)年4月、鐘淵紡績(現・カネボウ)系の錦華紡績株式会社に買収され、同社佐賀支店(のち同社佐賀工場)として、操業が再開された。
昭和16(1941)年には、錦華紡績(株)、日出紡織(株)、出雲製織(株)、和歌山紡織(株)の4社合併により、大和紡績(株)が誕生し、旧錦華紡績・佐賀工場は、同社佐賀工場となった。
大和紡績(株)佐賀工場の操業は、戦中・戦後を通じて盛んに行なわれ、最盛期(昭和25年頃)には、従業員数(組合員のみ)は2,000名を超え、そのうち女寄寮には1,430名の女子工員が働き、大和紡績の主力工場の一つとして稼働した。
昭和56(1981)年には、資本金50億2,000万円、年商1,015億4,000万円の繊維の総合大手メーカーに発展した。従業員約5,000人(うち佐賀工場650人)の規模に拡大した。綿布、スフ綿、綿糸のほか合繊布の生産にも乗り出した。
しかし、その後の繊維業界の再編等により、次第に工場の規模も縮小され、ついに昭和61(1986)年3月、同社佐賀工場は閉鎖になり、約70年の歴史を閉じることになった。
大和紡績・佐賀工場跡地約97,000㎡は佐賀市に売却され、市は跡地名称の公募を開始し、平成7(1995)年3月に決定した。現在、工場跡地は、施設と公園に整備され「どんどんどんの森」として、市民に親しまれている。