⑧肥筑軌道

佐賀市郊外と神埼郡の田園地帯を結ぶ軽便鉄道

「肥筑軌道(株)」は、佐賀~久留米両市間の最短交通機関を設置する目的で、佐賀市長・野口能毅、古賀製次郎、眞崎悟一等地元有力者が発起人となり鈴木商店の参画を得て大正5(1916)12月に設立された。奇しくも佐賀紡績の設立と発起人、時期も同じ状況でのスタートであった。

◇本社所在地:佐賀郡巨勢村高尾(現・佐賀市巨勢町高尾)

◇資本金:320,000円 

◇役員:取締役社長 辻泰城*

    専務取締役 眞崎悟一

    取締役 山田兼介、土屋新兵衛*、山口練一、谷治之助*、内田清一

    監査役 中島市次、南里献一、浅田泉次郎、草場又蔵、岡村国助

    相談役 中嶋修治郎、木下猪之助、大島貞七、国武喜次郎

    顧問 野口能毅 

    (*鈴木商店関係者)

同鉄道の予定路線は、県下三養基郡豆津を起点とし院線*佐賀駅に至る間および同起点から福岡県久留米市・院線久留米駅に至る総延長約22.6kmであったが、第一期工事として佐賀郡巨勢村高尾本社前より三養基郡三川村江見に至る11.2kmがほぼ完成を見た時、佐賀、久留米、唐津の有力者50余名の発起による「肥筑軽便鉄道」計画が持ち上がった。(*内閣鉄道院)

肥筑軽便鉄道の計画路線は、肥筑軌道の路線に接近または合致することから、"軽便鉄道"による"軌道"の買収が決定。その結果、発起人に新たに佐賀側より野口能毅、吉田久太郎、古賀製次郎、眞崎悟一等の他、鈴木商店より辻泰城が加わった。

こうして肥筑軌道の路線を引き継ぐ予定の肥筑軽便鉄道は、院線唐津線と久大線(久留米・大分間の軽鉄)の中断区域である佐賀、久留米両市間約25.7kmに軽便鉄道を敷設する計画の認可申請を行った。(大正8(1919)年)

「肥筑軽便鉄道(株)」の会社概要

資本金:2,000,000 (40,000)

◇主な株主:150 眞崎悟一、中嶋市次、 100 石田亀一*、西岡貞太郎*、谷治之助*、田中猪作、辻泰城*、土屋新兵衛*、内田清一、草場又蔵、山田 兼介、山口練一、小森竹蔵、古賀製次郎、公文粂蔵、浅田泉次郎、宮本政次郎 (*印鈴木商店関係者)

大正6(1917)年当時の分析では、佐賀と久留米を結べば院線に比べ時間運賃の面で経済効果が得られ、相応の営業が期待できると予測された。(「大正初期九州における私有鉄道」)

然しながら、久留米市街地への延長線は大正11(1922)11月に鉄道免許が失効したこと、第一次世界大戦後の反動不況から計画は頓挫。

肥筑軽便鉄道との合併が白紙に戻った肥筑軌道は、工事が完成していた巨勢村高尾から崎村間6.6km、停留所数8、全線単線による部分開業によりスタートした。然し、当初計画路線の両端を欠き、院線路線に接続しない孤立路線となったこと、沿線のほとんどが田園地帯のため収益が上がらず、昭和9(1934)年に運行休止、昭和10(1935)年に廃止に追い込まれ、その短い歴史の幕を閉じた。なお、この間、一時乗合自動車も営業し3路線の運行を行っていた。

「肥筑軌道高尾駅跡」 佐賀市ホームページ「つながる巨勢」には、巨勢町史跡26か所を紹介しており、「肥筑軌道」についてもその歴史と"高尾駅跡の新しい説明版"が掲載されています。

 


関連資料

  • 軽便鉄道
  • 肥筑軌道高尾駅跡
  • 肥筑軌道橋脚基礎跡

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