④鈴与再製塩工場、鈴与貯炭場跡

鈴木商店と縁の深い鈴与

現在のエスパルスドリームプラザ付近には、鈴与の再生塩工場と、鈴与貯炭場があった。この鈴与の両事業も、鈴木商店と関係が深い。

鈴与は従来より鈴木商店系の大日本塩業の代理店として原塩を輸入していた。大正7(1918)年頃、凶作により国内の塩の生産量が激減し、諸工業の勃興による塩の需要の高まりを受けて、清水港においても鈴木商店の取扱う関東州塩(中国・遼東半島産の塩)の輸入が急増。ただし海外塩は粗くかつ色も悪いため、再製塩工場が必要となり、専売当局の勧めもあり、鈴与が再生塩工場を設立した。

また鈴与は、大正7(1918)年の清水港地域の石炭取引において約37%のシェアを占めていた。一方、清水港の石炭の受入は27万トン、その内12万トンが鉄道用炭で、地理的な関係もあり鈴木商店製油所(後の豊年製油、現・J-オイルミルズ)向けに2万トン弱の納入があった。

鈴与二百年史によると、昭和3(1928)年の鈴与の豊年製油所向け石炭の取扱量は、1月から7月までの7か月間に1万3千トン、即ち年間約2万トンの取引があったと推定している。一方、石炭の調達面でも、鈴木商店系の帝国炭業とも取引があった。

鈴与は鈴木商店製油所の建設の際に、ドイツから買い入れた機械やその他の資材の陸揚げを請け負ったのが縁で、輸入大豆の沖取りから陸揚げ、工場内への搬入、大豆油と大豆粕の船積みおよび貨車積みに至る荷役、場内作業などを一貫して引き受けていた。

参考資料:「鈴与二百年史」

  • 鈴与再製塩工場(昭和初年頃)
  • 原塩の本船取り
  • 鈴与貯炭場(昭和9年頃)

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