豊年製油(現・J-オイルミルズ)設立の歴史②

南満州鉄道(満鉄)の事業を鈴木商店が引き継ぎ、清水、鳴尾、横浜に工場を建設

南満州鉄道(満鉄)は、大正4(1915)年春に所期の試験的製造を終え、「ベンジン抽出法」による大豆搾油の商業化にある程度の目途をつけた。しかし、満鉄直営による事業推進には、次の理由から困難が予想され、関係各方面からも事業継続に対する反対の声が上がっていた。

①大豆は相場変動が激しく、その買付は迅速さが要求される商業的な活動であり、満鉄設立の趣旨や規則に違反するおそれがある。
②商業化に伴い、さらなる関連化学工業の発展につながることが想定されるが、このことにより、本来の鉄道業務に関係のない事業が満鉄の中心的事業になるおそれがある。
③製油工場の経営には多額の資金を要するが、このことが別の分野の研究費を圧迫するおそれがある。

満鉄の大豆油製造の研究は、初代総裁・後藤新平の時代に開始され、第二代総裁の中村是公の時代に商業化を模索し、その後、満鉄は直営にて事業推進するべきかどうかの判断を下すこととなった。中村は大蔵官僚を経て台湾総督府に勤務し、初代民政長官であった後藤新平に登用され、第二代満鉄総裁に就任。

一方、鈴木商店の金子直吉は台湾にて後藤新平の知遇を得て、台湾における専売政策に応える中において樟脳、製糖、製塩などの事業で成功を収めていた。当然のことながら金子は中村と面識があったと思われる。ちなみに、中村は夏目漱石の旧友(第一高等中学校[後の第一高等学校]で同期)であり、漱石を満州に招いている。漱石は著書「満韓ところどころ」の中で、「満鉄中央試験所」の様子と中村是公の大豆油に対する思いを紹介している。

金子直吉伝によると中村は「大連に居る商人も工業家も皆満鉄は無駄な金を使っているといって非難する。ほめてくれるのは君一人だ。望みとあらば売ろうか」と金子直吉に「満鉄豆油製造場(油房)」の委譲を申し出ているが、中村是公の満鉄総裁在任期間中に、二人の間にこのようなやり取りがあったとしても不思議ではないだろう。

結局、満鉄は製造所の経営を民間に任せるべきとの結論に達し、また民間への委譲にあたっては、資力、信用、経験の点で確実な企業を選ぶこととなった。そして、鈴木商店は、2年間で製造能力を2倍に拡張すること、技術員・職工等は現在の待遇をもってそのまま継続すること、商標(豊年撒豆粕)はそのまま継続することなどを条件として特許権と製造場を買い取ることとなった。

大正4(1915)年9月、「満鉄豆油製造場(油房)」は鈴木商店に委譲され、同社は新たに製油部を創設して大豆油・大豆油粕の製造へと乗り出していくこととなった。なお、鈴木商店は大正5(1916)年5月、製造場の業務を継承する受け皿となる現地法人として、同社が大正2(1913)年1月に設立した海運会社・南満州汽船の社名および業態を改め、南満州物産を立ち上げている。

満鉄豆油製造場は「鈴木油房」と命名され、鈴木商店製油部の管轄となった。この鈴木商店製油部が豊年製油(現・J-オイルミルズ)の前身となる。

当時はまさに第一次世界大戦の最中で、欧米での植物油需要が急増していた時期であったため、鈴木商店は鈴木油房(大連工場)の大豆処理能力を日産100トンから250トンへと倍増させ、大連一の大豆油製造工場としてその存在感を示した。

さらに、大正6(1917)年に静岡県の清水港の隣接地に日産500トンの工場(清水工場)を、大正7(1918)年には兵庫県鳴尾村(現・西宮市)と横浜市に各日産250トンの工場(鳴尾工場と横浜工場)を建設し、操業を開始した。

この時点で、鈴木商店は4工場合わせて日産1,250トンの生産体制を築き上げている。清水工場の日産500トンという規模は、現在の大型工場のスケールと照らし合わせてもまさに画期的なものであった。なお、これらの製造装置は、満鉄の大連沙口河口工場で製作された。

清水港が適地として選ばれた理由は、①港に隣接している。②税関仮置き場がある。③工業用水に恵まれている。④製品輸送上で至便の地である。⑤大豆油粕の需要が見込まれる農村が近接している等であった。

鈴木商店は前述の通り、短期間に日産1,250トンの生産能力を整えたが、大正7(1918)年当時、日本には38の大豆搾油工場があり、1日の処理能力が100トン未満という小規模工場が多く、処理能力が100トンを超える工場は鈴木商店製油部(前述の3工場)を含めて7工場に過ぎなかった。このように、当時鈴木商店はその規模と能力において圧倒的な地位を占めており、いかに近代産業としてのわが国大豆搾油工業の確立に大きな影響を与えていたかが窺えよう。

肥料としての大豆油粕の普及につれ、政府もまた国内生産の振興策を打ち出し、大正3(1914)年にはすべての大豆搾油企業に対して大豆の輸入関税を免除する措置がとられた。

金子直吉はこの頃、後藤新平や中村是公との関係に加えて事業家としての資質を認められ、満鉄総裁への就任を打診されている。神戸人物誌には「大正中ごろ金子は満鉄総裁に推されたが、わしは鈴木の白鼠でたくさんだと断った」と記載されている。

金子直吉伝は、鈴木商店製油部設立の意義について「肥料においては金肥の消費は年1億1,500万円で、この内大豆粕の輸入額は3千2、3百万円の巨額に達していた。これが輸入の防遏(ぼうあつ)は我が国の国際貸借改善の上にも大にも役立つので農業の助成発達の上にも(ゆるがせ)にすべきものではなかった」と記述しており、金子が国益を視野に入れて製油事業への参入を企図していたことが分かる。

なお、平成5(1993)年に(株)ホーネンコーポレーションが編集・発行した『ホーネン70年の歩み』では、「後年、私が清水工場に転勤したとき、工場の備品倉庫の整理を行ったら、そこに鈴木商店の分厚いマニュアルがあった。営業、経理、工場運営まで全て書いてあった。これを見るとだれでも仕事ができるようになっており、立派なテキストブックであった。(中略)鈴木商店はしっかりした会社だった」との先輩の思い出話が紹介されており、当時の鈴木商店製油部清水工場の経営管理の緻密さを窺い知ることができる。

豊年製油(現・J-オイルミルズ)設立の歴史③

  • 中村是公(左)と夏目漱石(右)
  • 鈴木商店清水製油所(大正9年)
  • 鈴木商店の絵葉書(製造所として大連、清水、横浜、神戸=鳴尾の記載がある)

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