E.日本拓殖による不動産開発

鈴木商店は、大正8(1919)年台湾支店長・平高寅太郎を発起人総代として「日本拓殖株式会社」を新竹州中墱郡中墱庄石頭に設立した。設立時の資本金は1,000万円、株主は鈴木商店関係者、島内有力者等770名が名を連ねている。

鈴木商店関係者では、鈴木岩治郎を始め、金子直吉、柳田富士松、藤田謙一、平高寅太郎のほか下坂藤太郎も設立時の株主に加わっている。設立時の経営陣は、鈴木岩治郎が社長に、元宜蘭庁長の小松吉久を専務に迎え、取締役には地元有力者の他、藤田謙一、平高寅太郎が就任した。

日本拓殖は、鈴木商店桃園農場の事業を引き継ぐ形で発足、事業内容は ①土地経営 ②製糖業 ③製茶業の三本柱でスタートした。土地経営事業では、桃園大掘工事(増堀)のほか、桃園埤圳修繕、池・水路・堤防修繕等の水利改善事業、防風林、植林事業を手掛け、土地収入、小作料収入が主な収入源であった。 製糖業では、分蜜糖工場のほか4農場の経営を行った。さらに製茶業では、粗製茶仲買いが主であったが、烏龍茶の米国向け輸出を手掛けたが、折からの未曾有の大不況により取引は絶無状態に陥った。幸い包種茶のシンガポール、爪哇(ジャワ)等南洋方面への輸出に活路を見出した。事業は、次第に土地経営に注力して行く。

日本拓殖は、鈴木破綻後も小松吉久専務により事業は継続され、やがて現地台湾有力者による経営となり第18期(昭和12.2.1~昭和13.1.31)まで存続した。

日本拓殖の営業報告書により事業の変遷を知ることができる。

関連資料

  • 旧新竹州庁舎(現・新竹市庁舎)
  • 宜蘭県政府庁舎(旧宜蘭庁舎)正門
  • 広大な宜蘭県政府庁舎の一部

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