F-②台湾と鈴木商店(製塩事業)
台湾塩専売制度と鈴木商店
台湾総督府は清朝時代より170年間続いていた塩の専売制度を廃止し自由化した。しかし製塩に廃業が相次ぎ、塩田が荒廃して供給体制が崩れたほか、生業を失った人々が「土匪」化するなど治安悪化をも招く事態となった。このため民政長官後藤新平は、明治32(1899)年4月、阿片、樟脳に継ぐ3つ目の専売制度として塩専売を導入・復活させた。
鈴木商店が台湾塩専売制度に食い込んだのは、内地移出販売を一手に引き受けていた愛知県知多郡半田の豪商・小栗富治郎が経営する小栗銀行の破綻がきっかけである。
金子直吉は小栗銀行の整理を依頼してきた桂太郎に対し、台湾塩の内地への移出販売権を要求した。鈴木商店はその受け皿として明治42(1909)年に東洋塩業株式会社(桂太郎実弟桂次郎が社長に就任)を設立し、発行した株式を小栗銀行の預金者に配分する手法で、預金者保護と整理を行うこととした。こうして明治42(1909)年、専売局より初めて台湾塩の払い下げを受けたのである。
しかし、金子の思惑に反して台湾塩の販売は伸びなかった。当時すでに関東州塩が輸入されており、内地市場を占有していたからである。金子は関東州塩を販売している大日本塩業株式会社と販売協定を締結したのち、さらに販売権の譲渡を申し入れたが拒否された。
これに対して、金子は、設立したばかりの東洋塩業に藤田謙一を迎え専務取締役に据えると、社名を台湾塩業株式会社と変更するとともに、関東州に大規模な塩田開設権を獲得して、大日本塩業を牽制する動きに出たのである。
大正3(1914)年、大日本塩業の社長に就任していた大株主の島徳蔵が鈴木商店に対して、過半数の株式を譲渡することになり、内地塩販売のライバルであった大日本塩業は、あっさりと鈴木商店の傘下に組み入れられた。
鈴木商店は、しばらくは台湾塩業とともに2社を並存させたが、関東州の塩田開設権を継承した東亜塩業株式会社(大正4(1915)年設立)とともに3社を統合し大正6(1917)年、大日本塩業に一本化した。これ以降、台湾専売塩の販売請負名義も大日本塩業となった。
金子は「塩を制する者は化学工業の経営を制する」という強い信念をもっており、塩の安定供給に強いこだわりをみせていた。鈴木商店と塩とのかかわりは、樟脳と同じく、台湾の地にその端緒を見出せるのである。