F-①台湾と鈴木商店(製糖事業)
台湾における製糖業の展開
鈴木商店が最初に手がけた製糖会社は明治43(1910)年設立の北港製糖である。嘉義庁下の北港と月眉に工場をもち、資本金300万円、社長には小松楠彌が就任した。前年に明るみに出た大日本製糖と政治家との贈収賄事件(いわゆる日糖事件)によって日糖に与えられた製糖区域に空白が生じ、これを埋めるべく、台湾総督府が鈴木商店に対して製糖工場設立の許可を与えたことによる。
鈴木商店はこの北港製糖を中心に、内地資本による東洋製糖(明治40(1907)年設立、資本金500万円)、内地島内合同資本による斗六製糖(明治43(1910)年設立、資本金200万円)の株式を買収して3社を合併、新たに資本金1000万円、南靖、烏樹林、北港、斗六、烏日、月眉の6工場を擁する新式製糖会社東洋製糖を誕生させた。東洋製糖は、この後も合併を繰り返して資本金を3625万円とし、台湾、明治、大日本、塩水港とならんで台湾5大製糖と称せられる大製糖会社に成長した。
鈴木商店の製糖事業は製糖区域の空白を求めて北進した。南投庁には明治44(1911)年に埔里社製糖、宜蘭庁では買収した宜蘭製糖公司を基礎として大正4(1915)年に宜蘭殖産を設立、さらに台南製糖に資本参加した。新竹庁には大正8(1919)年に大正製糖(資本金200万円)、朝日製糖(資本金350万円)を相次いで設立、大正製糖はそのまま東洋製糖に合併させた。同年、台中には台中製糖(資本金300万円)を、翌年には桃園庁下に製糖業を主な営業科目とする日本拓植(資本金1000万円)を設立し、2代目岩治郎自らが社長となった。
大製糖会社への資本参加も積極的に行った。林本源製糖(板橋林家の経営)や塩水港製糖に資本参加したほか、新興製糖(高雄陳家の経営)の経営にも人材を参画させ、製品の販売権を手中に収めた。
大正9(1920)年に設立された台湾炭業は、製糖業の燃料となる石炭の安定的供給を目指したもので、いわば台湾における鈴木系製糖会社の共同燃料供給会社である。設立まもなく業界の状況が急降下したため、立ち上がりより苦しい経営を強いられた。