F-③台湾と鈴木商店(破綻後の台湾事業)
台湾事業の行方~台北カネタツと台南カネタツ
鈴木商店の破綻後、世界各地に残された支店は独立経営の道を歩むことになった。なかでも台北、台南の支店は、昭和2(1927)年6月、世界に先駆けて独立を果たし、それぞれ台北カネタツ株式会社(当初の社名は「鈴木商事株式会社」で、翌年までに社名変更)、台南カネタツ株式会社が誕生した。資本金10万円、社長をおかず専務体制をとり、台北カネタツ専務には肥後誠一郎、台南カネタツ専務には川崎二三が就任した。
『台湾日日新報』によると、継承した旧支店時代の13の代理権を基礎に、経営は順調に始まり、台北カネタツでは一年目の総会で10%の配当を行っている。その代理権の主なものは、専売樟脳油販売、神戸製鋼所、帝国汽船、日本拓殖、大正生命などの代理店で、神戸製鋼所の機械金物は嘉南大圳、鉄道部、逓信部、電力会社などへ取り次いだ。日本拓殖の米取り扱いは設立翌年には3万袋にのぼり、これを台北の移出商に販売し、釜山、京城、神戸、大阪、下関、小樽など元鈴木社員が独立して経営していた店舗へ送った。このほか氷砂糖、ラクトーゲン(粉ミルク)、鷲印ミルク、澱粉、小麦などを扱った。一方、台南カネタツは神戸製鋼の機械金物を各製糖会社へ売り込み、大日本製糖の砂糖販売を扱うなど、これも順調な滑り出しを見せた。
『台湾農林新聞』の記事からは、設立10年目となった昭和11(1936)年の台北カネタツの姿をうかがい知ることができる。獲得した代理権は、当初よりさらに増えて20を上回る盛況振りである。ネッスル社との紛争で一時無配に陥ったものの、その後回復し、大阪岩井商店の代理店として宜蘭・新竹の苧麻、台南の黄麻を内地に送った。さらに戎克貿易に進出し、対岸より染料の原料油などを買い入れ、台湾特産品を対岸に輸出した。当時の経営陣は専務肥後のもと、取締役として平高寅太郎、竹内虎雄、小野嘉七、監査役に北尾直樹らがあり、鈴木商店時代以来の古参が顔を揃えていた。