⑨日本発条創業の地

旧鈴木商店鉄材部の親睦会から生まれたばね事業

鈴木商店破たん後、旧鈴木商店時代の鉄材部の人たちとの親睦会が定期的に開催されていた。ある時、この会にて自動車用ばねが話題となり、この事がきっかけで、日商、井上商店、三沢寛祐による芝浦スプリング買収、そして日本発条の設立に発展した。その後、日本発条は自動車用の懸架ばねでは世界最大のシェアを誇るグローバル企業に成長する。

以下は、「日本発条50周年記念誌」より抜粋

「日本で自動車が活躍を始めたのは、第一次世界対戦、関東大震災を経験した大正期のことである。まだ独立の自動車メーカーではなく、アメリカの車が盛んに輸入された。当社の歴史は昭和13(1938)年、楓英吉、井上清、坂本壽の3名が、この自動車用のばねに注目したことから始まる。

~自動車用ばねに夢を賭けた"土佐っぽ"トリオ~

楓、井上、坂本はともに高知商業の出身で、大正期は神戸の総合商社・鈴木商店の鉄材部に席を並べていた。昭和2(1927)年の金融恐慌で鈴木商店が倒産したのち、楓は日商(現・日商岩井)、井上は大阪の鉄鋼問屋(井上商店)、坂本は尼崎の鋼材メーカー(日亜製鋼)へと転身したが、年2回の集まりをもってコンタクトを欠かさなかった。

13年の春、坂本は井上からある調査を依頼された。ばね鋼の注文が東京方面から殺到しているので、その背景と今後の見通しを調べてみてくれ、と。坂本が八方手を尽くして情報を集めてみると、自動車用のばねの需要が急増していた。自動車の生産はその頃まだ2万台程度だっかたが、国内メーカーの動きも活発であり、満州や大陸での需要増を見込むと、近い将来100万台に突破するのも夢ではなかろうと思われた。自動車用ばねという未知の世界は、鉄鋼油で育った"土佐っぽトリオ"の事業意欲をいたく刺激した。

~芝浦スプリングを買収、日本発条の創立へ~

圧延からのばね一貫生産へと夢をふくらませた三名は、さっそく事業計画を練り、近道ともいえる既存のばね工場買収にとりかかった。坂本が勤務の合間をぬって買収先を探し、注目したのが東京・西芝浦のスプリング製作所だった。その技術は業界でも一目おかれ、設備も当時としては整っていた。

同社買収のめどがつくと、14年2月1日に井上商店の系列にあった大阪製鋼所(現・日発金属工業)の日東工場を買収、ばね鋼圧工場としたのち、2月27日に芝浦スプリング臨時株主総会を開いた。選ばれた新役員はいずれも非常勤で、経営の実際面は坂本総務部長と藤岡営業部長が製造面は山口作が技師長として担当、また7月の2度の増資により日商が筆頭株主になった。次いで8月には楓が初代社長に就任、9月8日には社名を日本発条株式会社と定めた。時に坂本36歳、藤岡31歳だった。当社は、この9月8日を創立記念日としている。」

  • 芝浦スプリング
  • 芝浦スプリングの工場内の様子
  • 楓英吉(初代社長)

TOP