⑪東京毛織・大井工場

東京毛織・大井工場は、後藤毛織・大井工場が前身

後藤毛織(株)は、明治13(1880)年、後藤恕作により東京府芝区白金台(現・港区白金台)に創業した「(合)後藤毛織物製造所」を前身とし、明治25(1892)年に東京府荏原郡大井村字太刀ケ原(現・品川区大井町)に工場を建設。明治33(1900)年5月には、製糸工場、織物工場を有し、男女職工1,200余人、生産額は年間130万円を記録し、当時の府下有数の大工場であった。

 「後藤毛織物製造所」は明治40(1907)年4月、「後藤毛織(株)」として組織変更され、資本金300万円にて再スタートした。

 大井町駅開業以前の明治末期、後に大井町駅となる地域に鉄道を挟んで、西側には「後藤毛織」、東側には「東京製絨・品川工場」が操業していた。

 大正4(1915)年、後藤毛織は鈴木商店により買収され、「東洋毛織」と改称された。

 大正6(1917)年、東洋毛織(旧・後藤毛織)、東京製絨、東京毛織物の3社合併により新生「東京毛織」が誕生した。

東京毛織が誕生すると、旧・東京製絨・品川工場は、旧・後藤毛織の工場に集約され大井工場として再出発した。東京製絨工場跡地は、日本毛織(株)に売却された後、立会尋常高等小学校に変わった。

東京毛織・大井工場は、大井町駅西口前に煉瓦造りの広大な倉庫群を備え、数本の大煙突から白煙、黒煙が立ち込め、付近一帯は毛織物の匂いが漂い、輪転機の音響が昼夜間断なく聞こえ、工場の旺盛な様子を物語っていた。恰も海外の工場地帯を歩く気分がすると「大井町誌(大正12年発行)」に記され、東京毛織は、大井町発展の鍵を握っているとされた。最盛期には東京毛織・大井工場には、2000人もの女工さんが働いていた。

大正末から戦前まで大井町駅周辺には、東京毛織のほか、真崎鉛筆(現・三菱鉛筆・現在は本社ビルのみ)、東京電気(現・東芝・現在の東芝病院)、日本光学(現・ニコン/現存)の工場群が操業していた。なお、東京毛織はカネボウに引き継がれた。                 (品川観光協会)

JR大井町駅近くの「ホテルルートイン品川大井町」(品川区大井1-35-1,3)横一帯に古いレンガ塀、土台の一部が残る。東京毛織を引き継いだ「鐘淵紡績・大井工場」が解体された際の煉瓦造り工場の一部の名残。鐘淵紡績・大井工場跡地の一角には、カネボウ系ビジネスホテル「アミスタ」が2012年まで営業されていたが、ホテルルートインチェインに引き継がれた。また、同工場の煉瓦は、区内の寺院(天龍寺、正徳寺)の塀に転用されて現存している。

                                   

関連資料

  • 東京毛織・大井工場(旧・後藤毛織)
  • 東京毛織・大井工場内部
  • 東京毛織・大井工場

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