帝人設立の歴史③
秦の米沢高等工業学校における研究、久村の助言、そして金子の支援
秦逸三が勤務した米沢高等工業学校は当時、東京・大阪・名古屋・仙台・熊本・米沢の6校しかない高等工業学校の一つで、その中でも応用科学科が設置されたのは、東京・大阪・米沢の3校だけであった。当時の校長・大竹多気は工部大学機械科出身の工学博士で、米沢で盛んな毛織物の権威であった。同校は図書・実験・機械の充実を図り、それらの豊富なことでは全国一であったという。
秦は人絹の研究に取り掛かるものの、夏冬の休みの度に大阪の久村清太の自宅や東レザーの研究室を訪ね、久村からヴィスコースの製造について指導を受けた。久村からすれば米沢高等工業の機械・動力は魅力的であり、秦にヴィスコースを糸に引く試験を依頼する。
ある時、久村は秦から糸ができたという電報を受け取る。そして秦は久村に実験室でできた光沢も強度もない人絹を送る。その人絹の糸を見た金子直吉は「糸には相違はない。大したものだ」と思った。
一方で秦は研究に夢中になり過ぎて本業の米沢高等工業学校講師としての仕事が疎かになり、上司や同僚の教授たちとは肌が合わず研究室の薬品の使用を禁止され、自らの給与から研究費を捻出しなければならず、食べる米がなくなったことさえあった。
大正3(1914)年、秦は夏休みに大阪に帰った際に久村にこの窮状を語り、二人で金子を訪ねる。二人は農商務省に研究費を援助してもらうよう金子に口添えを依頼したが、金子は「農商務省に頼むのは面倒だ。僕が出そう」と援助を約束する。
そして鈴木商店傘下の東レザーから、秦の人絹研究用として年間1,200円を米沢高等工業学校に寄付をした。(後に、東レザーはこの寄付により文部省から木杯1個を受領している)
鈴木商店の支援を受けるも秦の研究は困難を極め、疲労と二硫化の中毒から数度倒れ、また講義も忘れるようになり周囲の反感は強まっていた。しかし校長の大竹は秦が講義を忘れた際にはそれを代行するなど、秦を励まし続けるのであった。
研究が進み秦の実験の規模を拡大するため、金子は米沢高等工業に3万円の寄付を申し入れる。しかし、この提案は教授会により否決されてしまう。それには、それまでの秦に対する周囲の反感が背景にあったと思われる。その一方で、金子の人絹生産に対する熱意が伝わると、米沢の有志の間に人絹製造工場を誘致する機運が高まっていった。
大正4(1915)年、金子は地元米沢の要請に応えるため、大隈内閣成立祝賀会に出席したその足で、東レザーの松島誠と秘書の小野三郎をともない米沢に赴く。そして米沢高等工業の実験室を訪れ、秦の説明を聞いた。この時秘書の小野は二硫化ガスの中毒になっている。そして、金子は「現在の人絹の歩留まりは60%でコスト4円。技術と機械と職工の三つが揃って働くようになれば歩留まりは90%にもなり、コストは80銭ぐらいになる。そうなれば大儲けできる」との算盤を弾(はじ)き、人絹生産の事業化を決意するのであった。