帝人設立の歴史⑨
人絹から合成繊維へ、大屋晋三、高畑誠一らの活躍
昭和2(1927)年に親会社の鈴木商店が破綻したものの、帝国人造絹糸は岩国工場の稼働により業績が好調だったこともありこの危機を乗り越えていく。そして鈴木商店に関わる保証債務も完璧に履行する。また最新鋭の三原工場の建設決定(竣工は昭和9年)も投資家の注目を浴びるようになる。
当時、帝国人造絹糸の株式20万株が破綻した鈴木商店の担保として台湾銀行に預けられていたが、この株式のおよそ半分が財界人グループ「番町会」の手に渡る。その後、帝国人造絹糸は証券取引所に上場し、好業績を背景とした同社株価の上昇により「番町会」は大きな利益をあげるのであるが、この株式の譲渡を巡り政財界を巻き込んだ、後に「帝人事件」と呼ばれる一大疑獄事件へと発展する。
帝国人造絹糸は岩国工場、三原工場の完成により生産量が急増。同社は国内最大の生産量を誇り、昭和12(1937)年には欧州先進国一国の生産量に匹敵する量を生産。人絹ブランド「DIAFIL」は世界各地に知れ渡った。
社長の大屋晋三(鈴木商店出身)は昭和23(1948)に第二次吉田茂内閣の商工大臣に就任し、同年社長を辞任する。その後、繊維製造業界は人絹から合成繊維へとその流れが加速していったが、帝国人造絹糸はこの波に乗り遅れていた。大屋は苦境が迫った帝国人造絹糸救済のため、日商の高畑会長、三和銀行の渡邊頭取らの要請を受け昭和31(1956)年、社長に復帰。そして、英国ICI社からの技術導入によるポリエステル繊維・テトロンの事業化を決意するも、ICI社のライセンス取得についてはすでに東レが交渉していた。
しかし高畑誠一の鈴木商店ロンドン支店時代からのICI社との人脈により、帝国人造絹糸にもライセンスが付与されることとなった。昭和33(1957)年には松山工場でテトロンの生産が開始され、同社は復活を遂げる。その後帝国人造絹糸は、昭和37(1962)年11月に社名を「帝人」に変更する。
このテトロンの導入時に入社した社員に、平成22(2010)年にノーベル化学賞を受賞した根岸英一がいた。根岸氏は東京大学工学部在学中に「帝人久村奨学金」を受け、その縁で帝国人造絹糸に入社している。当時の大屋晋三社長は「若者よ海外へ出ろ。10年に1か国語ずつ学べば、30年で3か国語が話せるようになる。そうすれば君たちも世界で通用するようになる」と語りかけており、根岸は、自分の原点はこの大屋社長の言葉にあったと語っている。なお、根岸は古巣の帝人から「帝人グループ名誉フェロー」に招聘され、就任している。
現在、帝人はテトロンだけでなく、培った高分子技術をベースとして樹脂事業、フィルム事業と事業領域を拡げ、繊維においてもアラミド繊維、炭素繊維など次世代高機能繊維の有力メーカーとなり、さらには全く新たな事業として医薬医療事業を育て上げ、グローバル企業として確固たる地位を確立している。