日商(現・双日)の歴史④
順調な決算、台湾銀行の債務免除、鈴木家が筆頭株主へ
日商初年度の第一期決算は、売上高296万円、純利益26円と利益を上げることになった。その内、金属で37%を占め、そのほとんどがタタの銑鉄取引であった。
台湾銀行は、当初資本金100万円のうち半分の約47万円を出資し、旧日本商業への債権の一部約76万円の返済を義務付けるなど、新生日商は、完全に台湾銀行管理下におかれていた。しかしその後、業績は順調に推移し、昭和7(1932)年には約10万円の利益を得て、台湾銀行名義の株式を買い戻すことになる。かつ台湾銀行は高畑・永井らの功績を評価し、当初義務付けた債務の返済は免除した。そして日商は自立の道を歩むことになる。
【売上高推移】
昭和 4(1929)年 3,288万円
昭和 7(1932)年 4,266万円
昭和10(1935)年 8,053万円
昭和9(1934)年には、資本金を100万円から300万円に増資。この際、太陽曹達の鈴木岩蔵(鈴木よねの次男)が筆頭株主となり、その後、太陽曹達が日商の筆頭株主となった。鈴木家が筆頭株主となったことから、営業面でも神戸製鋼所、播磨造船所、帝国人造絹糸など旧鈴木商店系諸企業との関係を深めていく。
例えば、線材の取扱は神戸製鋼所の強力な支援により、常に業界大手となる。また人絹取引は、旧鈴木系の帝国人絹そして新光レーヨン(後の三菱レーヨン)との取引を拡大した。人絹の取扱は昭和10(1935)年の515万円から、昭和13(1938)年には、2,340万円と飛躍的に伸び、鉄材に次ぐ重要商品となった。
昭和11(1936)年頃には、社員の数が倍になり、西田仲右衛門(鈴木よねの兄)の所有地を譲り受けて新本社ビルを建設し、昭和12(1937)年には地鎮祭を行った。日商ビルの銅製定礎板には社長の下坂藤太郎の名が刻まれている。この定礎板と一緒に、昭和12年製の貨幣、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞などが一緒に埋められた。(後年取り出されている。)