日商(現・双日)の歴史②

日商再起組のエピソード

鈴木商店破綻から日商設立までの道にはいくつかのエピソードがある。

日商設立の日である昭和3年2月8日は、西暦でいうと1928年2月8日となり、2・8が二つ並ぶ。2月8日という日は、かつて明治37(1904)年、日本海軍の水雷艇が旅順港に碇泊していたロシア極東艦隊の戦艦に奇襲をかけ、日露戦争勃発となった日でもある。小さな日商が大財閥に再び挑むという想いが込められたという説がある。

高畑誠一が、新会社の社長となる下坂藤太郎(元台湾銀行副頭取)に社長就任を依頼した際に、下坂は「出社はしない。したがって給料もいらない」という条件付で引き受けた。会社の経営は高畑・永井に全面的に任せるという。高畑らが「出社されなくても結構です。いくらなんでも無給では困ります」と申し上げると、「そんなにいうなら私の好物の灘の生一本、薦かぶりを盆暮れに一たるずつ送っていただきたい」と返答。結局下坂は約束どおり、一日も出社せず、盆暮れの樽酒だけの報酬で社長を務めた。

本記念館の監修を務める大塚融氏は、後年日商岩井の依頼に基づき、「永井幸太郎物語」を執筆し、破たん時をこう描いている。「鈴木商店破綻は4月21日までに全国37銀行が休業に追い込まれるほど凄まじい金融恐慌をもたらし、社会不安を目の当たりにして、永井は「倒産」がもたらす企業の社会的な責任の深さを痛切に感じた。それだけに倒産後の債務者への整理と残された1,000人の社員の身の振り方に全身全霊を打ち込んだ。ほとんど無給で働く毎日が続いた。永井が専務をしていた旧日本商業を整理して台湾銀行へ返すべき債務を新会社への出資金に振り替えてもらったり、東京海上社長・各務謙吉の同情出資を得たり、そして鈴木残党39人による日商の設立が決まった。」

なお、永井幸太郎は、鈴木商店支配人であった西川文蔵の次女・明子と鈴木商店社員の西川政一との結婚式の仲人を引き受けていたが、結婚式の8日前に鈴木商店は台湾銀行からの融資が打ち切られた。そして結婚式数日後に鈴木商店の破綻が確実となり、永井は東京で対応に追われ、西川に「神戸に戻れない」と電話し、西川の結婚式は永遠に中止された。

後の日商岩井の社長となる落合豊一も再起組の一人である。落合は、北米の小麦・木材輸入の開拓者である。落合は鈴木商店の破たんの時と日商設立時の様子を徳島新聞に連載された「天職に生きる」の中でこう語っている。「鈴木商店の破たん後、退職金は出ないといわれ、鈴木岩治郎に掛け合ったがない袖は振れずと断わられた。我々で金をねん出したらその一部を退職金に回すことを認めさせ、社員は必死に回収し、予想以上の額の退職金を得ることができた。私は鈴木商店時代の部下を引き取ってもらうため、小麦の資料をまとめ三菱商事にその資料とともに一部の部下を引き取ってもらった。その後、私は日商設立の話をきき、退職金を出資に回し、創業時のメンバーになった。」

日商(現・双日)の歴史③

  • 永井幸太郎物語表紙
  • 下坂藤太郎(日商初代社長)
  • 落合豊一

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