日商(現・双日)の歴史⑧
日商、岩井と合併し日商岩井誕生
昭和29(1954)年、永井は高血圧により社長を勇退し、落合豊一が社長に就任する。落合は日商再起組であり、主に鈴木商店・日商の小麦部隊を支える。小麦のバラ積みを初めて手掛け、シカゴの穀物取引所に東洋人として初めて鈴木商店を登録させた実績を持つ。
昭和33(1958)年には、落合社長が死去し、西川が社長に就任する。西川政一は、大正3(1914)年、神戸の鈴木商店に見習いとして入社し、支配人西川文蔵の家に泊まりこみ、鈴木商店の奨学金制度を活用し神戸高商に入学。そして西川文蔵の二女と結婚。結婚式の仲人は永井幸太郎であったが、披露宴の前日に鈴木商店が破綻し、披露宴は中止される。
また西川は神戸高商時代に排球(バレーボール)を始め、日本代表となる。自宅を事務所に関西排球協会(日本バレーボール協会のルーツ)を結成し、普及活動に奔走。その後、日本バレーボール協会会長に就任。東京オリンピックで初めてバレーボールが正式種目になり日本女子代表(東洋の魔女)は金メダルを獲得。表彰台で12人の涙する選手たちに金メダルを授与したのは西川政一社長であった。
昭和38(1963)年に日商は創業35周年を迎え、高畑誠一会長(76歳)は勇退し、相談役に就任する。昭和43(1968)年に、400頁にも及ぶ英文の論文を執筆し「工業国日本と勤勉なる日本人」と題して出版するほどのパワーを見せた。
日商創業40周年の昭和43(1968)年、日商は岩井産業と合併し、新会社日商岩井(会長岩井英夫、社長西川政一)が誕生した。当時日商は業界7位、岩井産業は業界10位であり、合併により業界第5位の総合商社となる。
平成15(2003)年には、日商岩井はニチメンと経営統合し、現在の双日に至っている。現在の双日においても鈴木商店時代から引き継いできた顧客基盤や商品群は未だに健在である。