クロード式窒素工業の歴史③
鈴木商店が彦島にクロード法によるアンモニア合成工場・クロード式窒素工業を設立
高畑誠一の強い進言があったとはいえ、クロード法の特許権の買収は技術力を尊重した金子直吉の大英断であった。金子は愛国心の強い国益志向型の経営者であったことから、当時の肥料輸入高2億4,000万円のうち2億円(約83%)を占める窒素肥料を自給し、食糧問題の解決に寄与するためにも、また当時政府が海軍の大拡張計画・八八艦隊の実現を強力に推進していたことから、合成アンモニアが軍事目的に使えるという期待が決断を促したことは想像に難くない。
クロード法の特許を購入した高畑は、塩の研究でヨーロッパに派遣されていた織田信昭と、油の研究その他で在欧中の二階堂行徳の3人で、改めてフランス、グランド・バロアス社のジョルジュ・クロードの工場に赴いて工場の稼働状況を視察し、アンモニアの発生状況を確認した。織田と二階堂は、奇しくも後に彦島工場(クロード式窒素工業)の初代と第二代工場長になった人物である。また二階堂は、当時鈴木商店製油部兵庫工場の工務部長の要職にあった。
当時、人絹(人造絹糸)の生産においても鈴木商店と覇権を争っていた日窒コンツェルン(現・チッソ、旭化成、信越化学工業、積水化学工業、積水ハウス他)の創始者・野口尊も日本窒素肥料にて空中窒素固定法によるアンモニア合成を目論み、鈴木商店と激しい競争を繰り広げていた。大正10(1921)年、石灰窒素製造にかかるフランク・カロ法の契約改定のためイタリアのテルニに赴いた野口は、カザレーが研究中の小規模実験工場を訪問する。
ハーバー法によるアンモニア合成の成功を知り、空中窒素固定法の工業化は石灰窒素ルートからアンモニアの直接合成に移行するとの確信を持っていた野口は、すぐにカザレー法の導入を決意したのであるが、この時応接室で工場の幹部が、野口に鈴木商店ニューヨーク支店からの書状を見せている。つまり、鈴木商店はカザレー法にも関心を示していたのである。
野口は鈴木商店の手回しの速さに驚くとともに、遅れてはならじと直ちにカザレー法の特許買収の話をつけ、正式契約を締結すると直ちに延岡工場の建設に着手。大正12(1923)年10月には、わが国初となるアンモニア生産を実現する。これにより、野口の期待通り硫安の製造費用は、フランク・カロ法に比べ半分以下になったという。
一方、資金繰りが逼迫する中、鈴木商店は最優先でアンモニア合成工場建設の準備を進め、大正11(1922)年4月、クロード式窒素工業が設立された。取締役会長には海軍中将・伊藤乙次郎、専務取締役には長崎英造(大日本塩業社長、合同油脂グリセリン社長、昭和シェル石油初代社長)、取締役に藤田謙一(大日本塩業社長、日活社長、日本商工会議所初代会頭)、村橋素吉(再生樟脳研究者・主任技師)、織田信昭(工学博士)、監査役に依岡省輔(神戸製鋼所専務取締役、日沙商会社長)、金光傭夫(大正生命保険社長、拓務大臣、厚生大臣)、技術監督には磯部房信と鈴木商店の錚々たる幹部・技術者が名を列ねており、鈴木商店がこの事業に対して総力をあげて取り組んでいたことが窺える。なお、このプロジェクトの推進役はアメリカ帰りの技術者・磯部房信であった。
翌大正12(1923)年7月、織田信昭が初代工場長に就任し、関門海峡に面した彦島製錬所構内(山口県豊浦郡彦島町字西山)に約7,000坪を借り受け、日産5㌧の試験工場の建設に着手。フランスから購入した装置・機械も到着。翌大正13(1924)年12月には工場建設が完了し、直ちに試験運転に入った。そして、石炭ガス化炉の不調により散々苦労した末に大正13(1924)年12月27日、わが国最初の1,000気圧という超高圧利用による合成アンモニアの生産に成功する。
明治後期から大正初期にかけて、彦島の対岸の門司市大里・小森江地区には、明治36(1903)年に大里製糖所(現・関門製糖)が進出したのを皮切りに、再製塩工場(明治43年)、大里製粉所(現・日本製粉)(明治44年)、帝国麦酒(現・サッポロビール)(明治45年)、大里酒精製造所(現・ニッカウヰスキー)(大正3年)、神戸製鋼所門司工場(現・神鋼メタルプロダクツ)(大正6年)、日本冶金(現・東邦金属)(大正7年)など鈴木系企業の工場が次々に進出し一大工場団地が形成されていったが、彦島・下関地区においても同様に帝国炭業(大正4年)、亜鉛製錬工場(後・日本金属彦島製錬所、現・三井金属鉱業関連会社の彦島製錬)(大正4年)を始め、大日本塩業分工場(大正5年頃)、沖見初炭鉱(大正5年)、関門窯業(大正6年)、彦島坩堝(現・日新リフラテック)(大正7年)など鈴木系企業が相次いで進出し、工業団地が形成された。
彦島製錬所が進出する以前の彦島の西山地区は30戸に満たない半農半漁の村であったが、たちまちにして人口1万人以上の「職工の町」が形成され、「職工長屋」と呼ばれる従業員の社宅や独身者を収容する「合宿所」が建設された。会社直営の配給所、無料の大浴場、病院、特設郵便局、派出所なども完備されていた。大正5(1916)年の福岡日日新聞では、関門海峡は鈴木の王国として紹介されている。
クロード式窒素工業の工場の立地については、すんなりと彦島に落着いたように思われがちであるが、実際はそうではなかった。クロード式窒素工業設立の2週間後の大正11(1922)年4月19日付で鈴木商店が東京府知事に提出された肥料製造営業免許願によれば、鈴木商店は東京府北豊島郡王子町の同社王子工場(大豆油硬化工場)にアンモニア合成工場を建設しようと考えていたようである。しかし、彦島製錬所の隣接地であれば亜鉛製錬所から発生する副生硫酸が活用できるとして、結局王子でのアンモニア合成工場の建設は見送られた。
ところで、この免許願については、たった1日にして東京府知事から免許が認可されているのであるが、このことから鈴木商店がいかにアンモニア合成事業の開始を急いでいたか、また金子直吉の後藤新平らの政治家と直結した政治力がいかに強いものであったかが窺えよう。