クロード式窒素工業の歴史④
フランスから技師を招へいし、彦島工場は本格操業に入る
鈴木商店はなぜ、大正時代には関門海峡の孤島であった彦島に、アンモニアと硫安の生産工場を建設したのであろうか。
第一次世界大戦の勃発を機に、軍需産業を支える金属工業は一躍脚光を浴びることとなり、各地に製鉄所のみならず亜鉛・銅などの製錬所が建設された。鈴木商店が彦島に亜鉛製錬所を設立したのもこのような時期であった。
鈴木商店は大正4(1915)年、帝政ロシアから受注した砲弾500万発を製造するため銅・亜鉛・鉛・錫等の製錬が必要となり、同年、岡山県日比の銅製錬所を買収。さらに、直営の亜鉛製錬工場を寂寞たる彦島町字西山の地に約4万坪を買収して建設。翌大正5(1916)年、これらを発展させ日本金属を設立し、日比製錬所、彦島製錬所(現・彦島製錬)として本格的に非鉄金属の製錬事業に乗り出した。彦島製錬所の創業当時の規模の大きさは驚くほどで、職工3千余人を擁し、林立する煙突からは昼夜間断なく吐き出す黒煙は濛々として天を覆うほどであったという。
設立当初は亜鉛鉱を山口県徳山で焙焼し、亜鉛焼鉱を彦島へ運んで筑豊炭で製錬した。亜鉛製錬で当時最も重視されたのは、①原料炭が入手しやすいこと、②人里離れた孤島で風が吹いてSO₂(亜硫酸ガス)による公害が発生しないことであった。製錬工場の立地として彦島が選ばれたのは、筑豊炭田が目と鼻の先で石炭が入手しやすく、離れ小島で公害発生の影響が少ないであろうという理由による。
その後、日本金属は公害発生の理由によるものであろうか、徳山での亜鉛焙焼が継続できなくなり、彦島製錬所内に焙焼炉を設けることとなった。そうすると、当然彦島においてSO₂公害の問題が発生することになるが、SO₂を硫酸にして固定化し、アンモニアと反応させて合成硫安を生産すれば公害問題は解消すると考えたのであった。時あたかも合成アンモニア生産の勃興期であり、硫安も高く売れるということから、クロード法の導入を機に彦島にアンモニア・硫安の生産工場が建設されたのである。
しかし、実際には発生する多量のSO₂のため、白砂青松の松原は公害で大変貌を余儀なくされた。なお、彦島製錬所およびクロード式窒素の工場でいかに大量の石炭を使用したかは、その後10数年の間に石炭灰で10万坪の埋立地が形成されたことで理解されよう。
工場のスタートに当たっては大正13(1924)年2月頃、契約先のレール・リキッド社から4名の技師が技術指導に招へいされ、彼らは工場の傍らに新築された済美寮(鈴木商店では全国の寮を済美寮と称した)に宿泊して指導に当たった。
工場の製造部は、次の4部門より構成されていた。
〇窒素製造部: 空気分離による窒素と副生酸素の製造。
〇水素製造部: ターリー式石炭完全ガス化炉で石炭を水性ガス化(石炭を水蒸気によって変成し、水素と一酸化炭素にする)し、水素分離装置で純粋水素を得る。
〇アンモニア製造部: 水素3対窒素1の混合ガスを圧縮機で1,000気圧に圧縮し、清浄管でCO(一酸化炭素)を除去した後、アンモニア合成管でアンモニアを製造する。
〇硫安製造部: 亜鉛精錬による副生硫酸とアンモニアを反応させて硫安の結晶を造り、硫安母液を分離して製品硫安を得る。
クロード式窒素工業は大正13(1924)年12月にアンモニアの製造に成功し、明けて大正14(1925)年2月より本格操業に入った。クロード法は製造工程が長く複雑で、フランスでの操業経験も浅く、装置の不備・技術の未熟さが重なり、ターリー式ガス発生炉を中心に装置の不具合が続発した。しかし、原料を石炭からコークスに切替えることによって、大正14年8月以降徐々に成績は向上し、10月にはアンモニア日産5㌧以上の成績をあげるに至った。
発生炉からのガスはCO₂(二酸化炭素)が10%以下になって、初めて水性ガスとして次の行程に送ることになっていたので、CO₂が10%を上回るガスはスタック(煙突)から空気中に放出して燃やしていた。CO₂が燃焼するので夜間にはそれが青い火となって揺れて見えた。次の「クロードの工場歌」がこの情景を見事に歌い上げて、当時の苦労の様子を偲ばせてくれる。
1. 西山通れば青い火がゆらゆら
樹の葉隠れに物凄い
コンプレッサーガツタリコ
2. 空気から窒素を取りや空気が薄うなり
きうりもなすびもならぬじゃろ
コンプレッサーガツタリコ
アンモニアはボンベ詰で冷凍機用や薬品製造用に出荷されるものも若干あったが、大部分は彦島製錬所の亜鉛製錬による副生硫酸と反応させて合成硫安とし、肥料として販売された。販路は西日本の中国、四国、九州にとどまらず、朝鮮にも出荷された。
元帥・伏見宮博恭王殿下はこの事業の重要性を認識され、大正15(1926)年4月、クロード式窒素工業は御臨場、御視察の栄に浴し、5月31日の天皇陛下の山口行幸の際には勅使が遣わされた。また同日、海軍大臣・財部彪海軍大将も工場を視察された。