神戸製鋼所設立の歴史⑦
田宮嘉右衛門が社長に就任、そして浅田長平の活躍により更なる発展へ
鈴木商店は昭和2(1927)年に破綻を余儀なくされた。これに伴い神戸製鋼所の経営は台湾銀行の管理下に置かれ、鈴木商店出身の経営陣は退陣。田宮も辞意を決意していたが、田宮を残すべきだとの声は各方面で聞かれた。金子直吉は田宮を呼んで「神戸製鋼所は君が育てたものだ。どんなことがあろうと、育ての親としての君は神戸製鋼所と運命をともにすべきだ」と諭され、田宮は涙を流し役員として残る道を選ぶ。
昭和9(1934)年、台湾銀行保有の帝国人造絹糸と神戸製鋼所の大量株式が財界人グループ「番町会」の手に渡り、この番町会が役員を送ることで経営支配を画策するという動きがあった。(この株式の売買を巡り、最後は政財界を巻き込んだ一大疑獄事件「帝人事件」へと発展していく) しかし、内外から番町会からの役員派遣に対して反対運動が起こり、この動きは自然と田宮社長擁立運動へと発展していった。結局、番町会は世間の批判にさらされ保有株を放出することとなり、株式が分散される中、鈴木家は正金銀行神戸支店が保有していた7万株の株式を買い戻し、鈴木家が神戸製鋼所の唯一の大株主といえる存在となった。そして、昭和9(1934)年の株主総会において創業以来の功労者である田宮が社長に就任することとなった。
神戸製鋼所は、台湾銀行管理下時代には合理化を図るため昭和4(1929)年に造船部門を切り離し、播磨造船所を独立させる。その一方で我が国初の高速エンジン(無気噴油式機関)の開発を成功させるなど技術開発を進めた。そして田宮を支え続けてきた後継社長・浅田長平の活躍もあり、海外からの技術導入を積極化し、後に神戸製鋼所の主力事業に成長する線材事業の拡大も図った。
このように神戸製鋼所は海外の先進的な技術を導入しつつも、独自開発に力を注ぎ、日本の鉄鋼業、造船、機械産業の発展に大きく貢献し、現在にに至っている。