神戸製鋼所設立の歴史⑥
第一次世界大戦終結後民生用機械の国産化に注力、田宮の欧米出張
大正8(1919)年には、脇浜埋立地の工事が完了する。当初この埋立地には1万トン級4隻の大型船台を有する大造船所が計画されたが、大戦終結により計画は中止された。
大戦の終結により神戸製鋼所は民生用機械の国産化に注力し、新品種の開拓を急ぐことで戦後の反動不況を乗り越えようとしていた。そして、田宮は大正8(1919)年9月に二回目の欧米出張に出掛ける。
当時は鈴木商店の全盛時代であり、重要な貿易港には支店あるいは出張所があった。ロンドン支店長の高畑誠一とは同じ伊予人であり、公私ともに昵懇の間柄であったことから、田宮が訪問する各地では高畑の配慮があり、またスイスでも高畑の西条中学、神戸高商の先輩であるベルン公使館の伊藤述史を訪ね、種々便宜を受けた。その後、田宮は鈴木商店の手配によりアメリカに渡り、合理的な分業生産体制に感銘を受け、大正9(1920)年5月に帰国する。
帰国後田宮は、まずディーゼルエンジンの開発に注力する。この頃、輸送部門の動力は次第にスチームエンジンから重油機関に代わろうとしていた。鈴木商店は、大正7(1916)年に海軍の要請でスイス・ズルツァー社から2サイクル・ディーゼルエンジンの製造権を譲り受けていた。そして浅田長平ら6人の技師がスイスに派遣され、大正10(1921)年に帰国。帰国後、海軍6Q32型600馬力エンジンを製作するが、これが我が国初の潜水艦用大型エンジンとなる。
また空気圧縮機の技術を応用し、冷凍機の開発にも取り組んだ。最初の製品は播磨造船所で建造したオイルタンカーの橘丸(大正10年竣工)に装備された。また海軍の特務艦にも採用された。帝国汽船の大東丸にも装備され、樺太の生鮭が東京、大阪エリアに鮮度の高いまま輸送され反響を呼んだ。
さらにセメント機械の開発にも我が国で初めて成功し、浅野セメント門司工場に納入され「外国品に比し、いささかの遜色なき事」との評価を受ける。また米・ウェスティングハウスから製造販売権を獲得し、鉄道用のエヤーブレーキの製造分野にも進出。大正14(1925)年には日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)を設立する。
神戸製鋼所は、大正9(1920)年に議会を通過した八・八艦隊計画による軍拡を期待していたが、大正11(1922)年のワシントン軍縮会議により大艦隊計画は中止となってしまう。重工業部門の生産計画は大戦終了により4割に縮減していたが、これによりさらに半減を強いられた。海軍用材の生産は全体の3~6割、その内神戸製鋼所が5割を占めていたため打撃は深刻であり、神戸製鋼所は400人を解雇する事態となった。
この間鈴木商店全体の合理化策として、神戸製鋼所は大正10(1921)年に鈴木商店傘下の鳥羽造船所と播磨造船所を吸収することとなった。吸収に際して両造船所の従業員の内2,000人を解雇。鳥羽造船所は造船部門を播磨造船所に移管し、鳥羽工場として電機部門に特化することになった。これが後の神鋼電機、現在のシンフォニアテクノロジー社の前身となる。この買収に際して、神戸製鋼所は資本金を2000万円に倍増している。
当時、紡績業は我が国における重要産業として発展していたが、紡績機械はそのほとんどが英国からの輸入品で、田宮は大正8(1919)年の欧州出張の際に随行員に紡績関係の調査をさせていた。その後、鐘淵紡績と製糸機械の共同研究を行い、大正12(1923)年には鐘淵紡績をはじめ、各製糸会社に製糸機械納入する。
鳥羽工場(旧・鳥羽造船所)では小田嶋修三(後・神戸製鋼所常務、神鋼電機顧問)らが帝国人造絹糸(後・帝人)向けの人絹紡糸機械用ポットモーターの製作に成功を収める。大正14(1925)年には帝人の広島、米沢、岩国の各工場に一万台余りのポットモーターを納入し、人絹製造業界に一大革命を起こすことになる。