播磨造船所の歴史⑧
石川島重工業と合併し、石川島播磨重工業(現・IHI)が発足
昭和20(1945)年12月15日、日本政府は連合軍総司令部(GHQ)から呉港付近に沈没・擱座している旧海軍艦艇の救難および解体作業を命じられ検討の結果、地理的見地から第一候補として播磨造船所をGHQに推薦した。
播磨造船所は諸条件を慎重に精査した結果、この作業を引き受けることとし昭和21(1946)年4月1日、呉海軍工廠跡に「呉船渠」を開設。播磨造船所の専務取締役・神保敏男が所長に就任し、本社から職員を約100人派遣し旧海軍工廠の造船、造機施設の一部を借用して作業を開始した。ピーク時(昭和23年9月)の従業員数は5,012名であった。
呉船渠は「伊勢」「日向」「榛名」「天城」「攝津」などの救難・解体工事を実施し、昭和23(1948)年9月までに救難工事21隻・約25万トン、解体工事145隻・約28万トン(全国の約47%に相当)を赤字を出すことなく完遂した。
昭和27(1952)年1月、呉船渠は超大型の造船施設をアメリカのナショナル・バルク・キャリア社(N.B.C)に譲渡して身軽になると昭和29(1954)年9月27日、責任を明確にして自由に経営に専念させる方が採算も良くなるとの理由により播磨造船所本体から分離独立し、「株式会社呉造船所」として新発足した。新発足当時の社長には住田正一(後・東京都副知事)、取締役には六岡周三らが就任した。
※呉造船所は昭和43(1968)年に石川島重工業と合併し、「石川島播磨重工業(現・IHI)呉工場」を経て、現在は「ジャパン マリンユナイテッド(JMU)呉事業所」として操業している。
昭和20(1945)年末、播磨造船所は神戸製鋼所がディーゼル機関の製造(*)を中止したことを受けて同社の製造権を引き継ぎ、同社や旧呉海軍工廠の協力を得て試運転工場にてディーゼル機関の製造に着手した。それまで播磨造船所が直接大型機関の製造を行わなかったのは、当時トップクラスのディーゼル・エンジンメーカーであった神戸製鋼所から供給を受けていたからであった。
(*)大正7(1918)年3月、鈴木商店は海軍の推薦によりスイス・ズルツァー社から2サイクル・ディーゼル機関の製造権を取得。同年7月、神戸製鋼所はその一切の権利を譲り受け、同年10月から1年以上にわたり浅田長平(後・同社第6・8代社長)を団長とする6名の技術者をズルツァー社に派遣し技術習得に努め、本格的機械メーカーへの道を切り拓いていった。
昭和23(1948)年11月、播磨造船所はズルツァー社と製造権契約を結び、大型ディーゼル機関の製造を開始した。播磨のズルツァー・ディーゼル機関1号機は6TD36型900馬力で、昭和25(1950)年3月に後記の「共栄丸」(1,161総㌧)に搭載された。続いて同年11月に10SD72型7,000馬力が完成し、後記の出光興産のタンカー「日章丸」[2世]に搭載され好成績を収め、播磨造船所はディーゼル機関メーカーとしての地歩を固めていった。
昭和25(1950)年5月には造船法が公布され、造船業界をあげて合理化問題が大きく取り上げられ、同社も全社をあげて作業の合理化、事務の合理化、設備の合理化および近代化を推進した。昭和25(1950)年6月、横尾龍社長が通商産業大臣に就任したため同年8月、常務の六岡周三が専務取締役を経て社長に就任した。
その後、世界的な石油需要の増加、石油貿易量の増加に伴いタンカー(油槽船)建造ブームが到来する。播磨造船所は、すでに大正10(1921)年~11(1922)年には「橘丸」(船主:帝国石油、6,539総㌧)、「満珠丸」(船主:帝国石油、6,515総㌧)、「千珠丸」(船主:旭石油、6,515総㌧)を、昭和6(1931)年には「富士山丸」(船主:飯野商事、9,524総㌧)などのタンカーを建造していた。
昭和25(1950)年当時、すでに優秀なタンカーメーカー「タンカーの播磨」としての地位を確立していた播磨造船所は、戦後のわが国最初の全溶接によるクリーン・タンカー「共栄丸」(船主:共栄タンカー、1,161総㌧)を竣工するなど、同社の技術力に対する評価は国内外で一層高まっていった。
さらに、播磨造船所はスーパータンカーの建造でも先陣を切った。昭和26(1951)年12月には小説「海賊とよばれた男」(百田尚樹著)で一層有名になった出光興産発注の「日章丸」[2世](11,866総㌧)が、昭和28(1953)年3月には日商(現・双日)を介して受注した戦後初の本格的輸出油槽船「ASPASIA MOMIKOS」(13,416総㌧)が竣工。また、昭和33(1958)年11月には飯野海運発注の当時国内最大のスーパータンカーであった「剛邦丸」(28,429総㌧)が竣工した。
昭和32(1957)年6月、長さ163メートルと兵庫県下最長のビルとなった「相生総合事務所」が竣工し、翌昭和33(1958)年11月27日には総合事務所前に6千余の従業員が参集して播磨造船所創業50周年記念式典(*)が盛大に挙行された。
(*)播磨造船所の創業は、明治40(1907)年3月に相生村の村長、唐端清太郎により播磨船渠株式会社が設立されたことに始まる。
この頃は昭和31(1956)年11月のスエズ動乱によるスエズ運河の封鎖を契機にして、いわゆる「スエズ・ブーム」が訪れ、わが国造船業界は有数のリーディング・インダストリーとして躍進を続けていた。播磨造船所も設備投資を継続する傍ら、播磨病院、相生球場、陸上競技場、体育館など厚生施設の建設を進めていった。
ところが昭和32(1957)年4月、スエズ運河の航行が再開すると運河封鎖の間に発注された新造船により世界的に過剰船腹状態となり、造船業界は昭和33(1958)年頃から一転して長期不況に突入した。
造船比率が90%以上という播磨造船所にとってこの不況は特に影響が大きく、昭和33(1958)年から35(1960)年の2年間に受注残高が3分の2に、売上高が2分の1に激減するといった状況に陥り、同社は安定経営を図るための打開策として陸上部門への進出を模索していた。
一方、陸上部門の比率が80%を占めていた石川島重工業も、石炭から石油へのエネルギー革命の本格化によりタンカーの需要が高まるとの判断の下でタンカーの建造に進出したものの、隅田川河口の「石川島」という同社の工場立地からは10万トン超の大型タンカー建造設備の増強は見込めず、苦慮していたところであった。
当時、石川島重工業社長の土光敏夫(後・東京芝浦電気(現・東芝)社長、経団連会長、第二次臨時行政調査会会長)と播磨造船所社長の六岡周三は交渉を重ねた結果、かねてより友好関係にあった両社のニーズが合致し昭和35(1960)年12月1日、株式会社播磨造船所は石川島重工業株式会社と合併し、新会社「石川島播磨重工業株式会社」が発足した。
この合併は当時としては戦後最大の企業合併であり、「陸(に強い石川島)と海(に強い播磨)の結婚」として世間を驚かせた。合併比率は石川島の5に対し、播磨の3、資本金は102億で、新会社の社長には土光が、会長には六岡が就任した。
新会社となった旧・播磨造船所は製品別事業部制となり、「相生第一工場」が船舶部門、「相生第二工場」が原動機・化工機生産部門となった。
※平成19(2007)年7月1日、石川島播磨重工業は社名を「株式会社IHI」に変更する。