播磨造船所の歴史③
北村徳太郎らの主導により播磨造船所の福利厚生の充実を強力に推進
大正5(1916)年4月、「株式会社播磨造船所」が発足すると鈴木商店の金子直吉は造船所の拡張に着手するため、北村徳太郎(後・播磨造船所支配人、神戸製鋼所佐世保出張所長、佐世保商業銀行(現・親和銀行)頭取、佐世保商業会議所会頭、運輸大臣、大蔵大臣)、福渡一雄ら少壮有意の幹部社員を派遣した。北村は事務関係全般の責任者である事務課長として赴任し、庶務・労務・医療・社宅・会計・倉庫などを担当した。
辻湊、平田保三(三菱造船所長崎造船所から入社)ら経営陣は、若手社員の試みを見守り支援を惜しまなかった。大正6(1917)年ごろからは、三菱造船所長崎造船所から横尾龍(後・同社社長、通商産業大臣)、渡瀬正麿、田村陸士らが相次いで入社し、技術陣が強化された。しかし、当時は大戦景気にあおられて各種産業が興隆する中でも造船事業は花形であり、各地に新工場が建設されたので技術者の争奪は日を追って激しくなり、人材確保に関する幹部社員の苦心は並大抵ではなかった。
相生は大正2(1913)年1月から町制を敷いたが実質はなお一寒村に過ぎず、道路沿いには人家もほとんど見当たらなかった。他の地域から誘致し移住してきた従業員は、彼らを収容する住宅が相生町にも那波村にもなかったため当初は相生町に下宿していたが、退去する者が続出。家族を加えると1万人に達しようとする人々の住宅確保は急務であった。
そこで北村らは厚生施設として社宅・寮の建設を強力に推進した。まず大正7(1918)年初、籔谷・新田と呼ばれた旭地区に田畑と海面を埋め立て、松・竹・梅3棟の家族持共同合宿所(俗称:300軒長屋)を建設して家族にも寝具を貸与し、食事も直営炊飯所より給食した。続いて、籔谷、那波丘の台、那波野、古池、相生町上町等に工員社宅を急設した。
さらに、相生町大谷川付近に独身社員用の済美寮、直営共同風呂を、籔谷に工員浴場を建設した。大正7(1918)年5月、娯楽慰安のため播磨劇場を開設し、工場内には医療所、構内郵便局を開設。新式のガソリンポンプを購入し、消防隊も創設した。大正8(1919)年10月には共済組合を設立する。
なお、社宅・寮の建設に当たっては、住宅の改造が家庭生活の改善と切り離すことのできない関係にあるとの考えから、それまでの職工長屋とは全く構造を異にした快適な住宅の建設を目指し、職員社宅と工員社宅を区別せず、工員も家賃さえ払えば長屋・一戸建てのいずれを選んでもよいようにした。(実際には、工員は長屋、職員は一戸建てに住んだ) 旭地区では南北に通した本通りを売店組合とし、テナントを募集した結果各地から商人が集まり、後の本町商店街に発展していった。
大正6(1917)年7月には「株式会社播磨造船所附属籔谷医院」(内科および外科)を開設し、造船所の従業員を中心に診療を開始した。大正11(1922)年2月、ほぼ同じ場所(現在のほんまち商店街の「コープデイズ相生店」の場所)に本格的病院が完成し、「播磨病院」に改称する。播磨病院は昭和33(1958)年、中央通り沿いの現在の場所に移転し近代的な総合病院になり、平成22(2010)年には新築グランドオープン。現在は「IHI播磨病院」として西播磨地区を中心に地域の医療を担っている。
北村は教育にも力を注ぎ大正7(1918)年6月、旭地区の住宅街に徒弟教習所を設立した。徒弟教習所は播磨造船所の熟練工養成機関であったが、当時中等学校が存在しなかった相生では実業学校のような機能を果たし、教育方針は「職工としての技術的専門知識を重視すること勿論なりといえども、更に先ず一個の人としての教養を第一義となし、彼等の人格を尊重し、その独立自治を高調し専ら人格的教育主義に則り、薫陶、開発に努め居れり」というものであった。昭和14(1939)年4月には播磨造船所技術員養成所に改称し、昭和33(1958)年には兵庫県認定の事業場内職業訓練所となり、義務教育を終えて造船所で働く者たちの教育機関として37回、1,492名が卒業した。
また、北村は幼児教育の大切さを認識し、幼児の保育施設を整えることによって女性が働きやすくなると考え、幼稚園学の第一人者であった東京女子高等師範学校の倉橋惣三教授に教えを乞い、旭地区に「株式会社播磨造船所附属済美幼稚園」(現・市立相生幼稚園)を設立した。北村は幼児教育を進めるためには、まず母親を教育する必要があるとの考えの下、毎月2回「母の会」を開催して母親を指導した。北村は、従業員の教育への関心を高めるとともに、これにより幸せな家庭生活を実現させようとしたのである。
大正8(1919)年ごろからは体育・文化活動が盛んになり、野球、庭球、剣道、柔道、漕艇、排球、籠球、卓球、弓道、スキー、ラグビー、バドミントン、サイクリング、囲碁、将棋、音楽等の倶楽部が順次発足し、倶楽部ハウス、野球場、テニスコート、陸上競技場など諸施設も充実した。
北村らの主導により街づくりを強力に推進した結果、播磨造船株式会社買収直前の大正5(1916)年3月に252名であった播磨造船所の工員数は、大正8(1919)年12月には6,372名にまで急増する。工員の4割弱は相生を中心とする兵庫県下出身者であったが、それ以外では長崎、広島、岡山など九州・中国地方の出身者が多数を占め、とりわけ長崎からの移住者が多かった。
工員の募集は近接地だけでなく遠く東北、北海道、沖縄、台湾、朝鮮にまで及び、大正6(1931)年末には籔谷地区に朝鮮人および支那人向社宅を建設した。彼らに対する待遇はよく、また勤務中の成績が優秀で役付に昇格した者もいたという。なお、当時の播磨造船所は鈴木商店の伝統が継承され、職員の食事は三食(朝・昼・夕)とも会社から支給され、皆食堂で食事をしていた。
わが国の資本主義経済は第一次世界大戦の勃発に伴う大戦景気により急速に発達したが、その反面諸物価の高騰が甚だしく、大戦末期の大正7(1918)年には民衆の実質賃金は大戦前の70%以下に低下した。米価も政府の調整失敗に諸事情が重なり急上昇し、同年の春1升(約1.8リットル)当たり24銭であった内地米が秋には50銭に達し、民衆は深刻な食糧危機と生活難に陥る。こうした中、大正7(1918)年7月以降全国的に米騒動が頻発し同年8月12日、神戸では鈴木商店本店(旧・みかどホテル)が焼き打ちされるという事件が発生する。
大正8(1919)年の夏から秋にかけて神戸の川崎、三菱両造船所において賃金アップを要求する労働争議が発生し、同年10月にはその余波を受けて播磨造船所においても争議が発生した。争議はすぐに解決したが、北村徳太郎はこのような労働情勢への対応策として同年12月、「播磨造船所青年会」を設立。職員や工員を青年会に組織し、青年演説会、音楽会などを開催し、また機関紙「播磨青年」を発行するなど次々に新機軸を打ち出し、人心の掌握に努めた。