海運

国策会社・国際汽船により海運事業の立て直しを図るも・・・

帝国汽船、国際汽船を設立して、海運事業に乗り出した。

◆帝国汽船 (神戸製鋼所、石原産業を経て現・日本海運) 
 設立   大正5(1916)年
 所在地  神戸

第一次大戦中、鈴木商店の取り扱う貨物の輸送を担う帝国汽船は、船腹の拡充を図ったが、海運市況下落したことから船腹の大部分を鈴木系の大日本塩業へ売却し、保有船1隻以外は大日本塩業他から用船する“オペレータ専業”となった。

第一次大戦の終結を見越して鈴木商店は、海運、造船部門を帝国汽船に集約する。大正7(1918)年に浪華造船所を播磨造船所と合併させ、続いて播磨造船所、鳥羽造船所を帝国汽船と合併させた。両造船所は、それぞれ帝国汽船播磨造船工場、鳥羽造船工場と改称した。また、帝国汽船の社長には、二代目鈴木岩治郎が就任した。さらに大正10(1921)年、帝国汽船・造船部を神戸製鋼所に合併させ、神鋼・造船部として播磨・鳥羽両造船所が移管された。

鈴木商店破綻後、昭和4(1929)年播磨造船所は、神戸製鋼所より分離独立することになった。また帝国汽船の海運事業はオペレータ専業として業務を続けた。

昭和3(1928)年から昭和4(1929)年まで帝国汽船は、筒井船舶所有の“喜多方丸”を用船し、樺太・小樽・芝浦間の北洋材の積取りや若松・四日市間の石炭輸送業務を行う等内航不定期船の配船を担っていた。

世界恐慌の影響は、海運業界にも大きな影を落とし、帝国汽船の経営を揺るがす事態を招いた。一方、海運業を兼営し海運に強い関心を抱く南洋鉱業(石原産業の前身)は、昭和4(1929)年石原産業海運合資会社と商号を変え、本格的に海運業に乗り出した。こうした背景から、帝国汽船の海運事業は、石原産業海運に吸収合併され、昭和12(1937)年には、日本海運を設立し帝国汽船の海運事業は、日本海運に引き継がれた。

日本海運が運行した貨物船「こがね丸」、油槽船「あけぼの丸」、特殊貨物船「あきつ丸」を始め多くの船舶が旧帝国汽船の関係から播磨造船所で建造された。しかし石原産業海運は、昭和18(1943)年海運事業を全て日本海運へ譲渡して海運業から完全に撤退した。これに伴い、社名を石原産業に改称した。

日本海運は、その後日本通運の関係会社となり日通グループとしての歩みを踏み出した。

◆国際汽船 (現・商船三井)
 設立   大正8(1919)年
 所在地  神戸

国際汽船は、第一次世界大戦終了後の過剰船腹の政府救済を求める海運業界の要請を受けて金子直吉が提案した国策会社で、大正8(1919)年一部政府の融資援助を得て設立された。

8船主(川崎造船所・川崎汽船、鈴木商店、浅野造船所、浦賀船渠、横浜鉄工所、日本汽船、橋本汽船、石川島造船所)の所有船舶を船価換算して船舶現物出資することで、政府融資2,500万円を含め1億円の資本金をもって設立した。

最大の出資者の川崎グループと鈴木商店分を合わせると全体の70%超となり、川崎の松方幸次郎が社長に、鈴木商店より金子直吉が会長に、ロンドン支店長高畑誠一が取締役に就任して共同海運会社がスタートした。

戦後の海運不況を克服すべく松方幸次郎は、川崎汽船、川崎造船所、国際汽船の3社共同運営のもとに鈴木商店を総代理店として「Kライン」を発足させ大西洋航路を主要マーケットに実績をあげていた。

しかし、世界的に海運市況は、好転せず、国際汽船の経営は危機に瀕し、昭和18(1943)年政府の指導により大阪商船へ吸収合併されることになった。

大阪商船は、昭和39(1964)年三井船舶と合併して大阪商船三井船舶(略称:商船三井)となり当時業界第1位の海運会社が誕生した。

さらに平成11(1999)年ナビックスライン(ジャパンラインと山下新日本汽船が合併)と合併した。社名を商船三井に変更し、日本郵船、川崎汽船と並ぶ日本の三大海運会社の一社(連結売上高では、第二位)となった。

関連リンク

  • 国際汽船・鹿野丸
  • 帝国汽船・百合丸
  • 帝国汽船・播磨造船所
  • 川崎汽船本社(神戸・海岸通)内の国際汽船

関連会社の変遷

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