帝国石油・旭石油(後に昭和シェル石油、現・出光興産)の歴史①
帝国石油と旭石油が合併し、鈴木商店傘下の新生・旭石油として再発足
石油は、鈴木岩治郎の時代から鈴木商店の代表的な商品であった。明治15(1882)年、鈴木岩治郎ら7名が発起人となり、神戸栄町三丁目に共同企業・神戸石油商会(資本金3万円)を設立した。岩治郎たちは同商会設立により外商に対抗し、外商の価格つり上げ防止の手段として需要者の保護をはかるとともに、その集中資本を活用して共同油槽(石油タンク)を設置することにより石油配給の確保を狙ったのであった。
大正7(1918)年、鈴木商店は帝国石油(大正6年設立)を買収する。同社は秋田県で採油事業を営んでいたが、経営不振のため、金子直吉と昵懇の後藤新平の要請により鈴木商店が買収したものである。
経営陣は取締役社長 藤田謙一、専務取締役 岡和、取締役 石橋為之助、*大川久平、長崎英造、宮尾麟、*大井卜新、監査役 宇佐美薫次、金光庸夫、*佐藤一雄、瀬島猪之丞(*は旧経営陣)であった。
買収後の帝国石油の採油事業は、秋田県道川油田にて日産800石の生産に成功。その一方で、山口県徳山に製油所を開設し、アングロ・ペルシャ社からペルシャ原油を輸入して精製を開始した。そのため、播磨造船所にて日本初の民間大型タンカーとなる橘丸(6,539㌧)のほか満珠丸(6,515㌧)、千珠丸(6,515㌧)を建造している。
自社タンカーで外油を輸入したのは帝国石油が最初といわれている。神戸市史によると橘丸は大正10(1921)年10月にペルシャのアバダンより7,000トンを、翌11(1922)年には南米のサンペドロより7,000トンを輸入。満珠丸は同年に7,900トンをボルネオのタラカンより輸入している。
一方、(旧)旭石油は、大正10(1921)年2月に元日本石油社員・瀬島猪之丞により設立された。旭石油の嚆矢は、瀬島が日本石油に勤務中の大正6(1917)年に東京江東大島町に設立した瀬島製油所である。瀬島は大正8(1919)年に瀬島製油所を改組して旭精油(旭石油の前身)を設立する。(旭精油は(旧)旭石油設立時に同社に吸収された。) 旭精油はタンカー部門を有し、ライジングサン社から外油(ミリ原油、タラカン原油)を輸入して大島町の製油所で処理し、主に潤滑油を製造していた。
(旧)旭石油は設立直後の大正10年5月、ライジングサン社から重油を輸入し海軍省に納入していた辛酉商会と合併し、閉鎖中のライジングサン社の西戸崎製油所(福岡県)を借り受けて外油の輸入・精製に着手している。さらに、同年6月には、日本石油、宝田石油からの出資を仰ぎ、資本増強をはかっている。同社は、その後も海軍省への輸入重油の供給と輸入原油精製の事業を拡大していった。
大正11(1922)年、鈴木商店のイニシアティブの下で帝国石油と(旧)旭石油は合併し、鈴木商店傘下の新生・旭石油として再発足する。そして社長には金子直吉の盟友である川崎造船所社長の松方幸次郎、専務取締役には瀬島猪之丞、そして監査役には金子直吉の片腕とも言うべき立場の長崎英造が就任する。
長崎英造は桂太郎の次女と結婚し、鈴木商店の東京総支配人時代には、当時政財界のトップにより結成された「番町会」のメンバーになるなど、政財界での顔が広かった。合併に伴い、同社は輸入原油をライジングサン社経由に一本化し、精製を継続していった。
当時、鈴木商店は満州産の大豆油を欧州に輸送し、その後米国にて鉱油を積載して旭石油の徳山製油所および西戸崎製油所に輸送するなどの輸送網を構築している。
昭和2(1927)年、わが国未曾有の金融恐慌が起こり、鈴木商店、川崎造船所、十五銀行などが経営破綻を余儀なくされ、旭石油もこれらの余波を受けて巨額の損失を計上し、同年、倒産に至った。これに伴い、松方幸次郎は社長を退任。代わって長崎英造が社長に就任し、旭石油の再建に乗り出すこととなった。