帝国石油・旭石油(後に昭和シェル石油、現・出光興産)の歴史③
長崎英造の退任、シェル石油との合併により昭和シェル石油が誕生
戦時中、軍部の要請により石油同業他社が次々と拡張施策を推進していく中、長崎英造はあえて拡張策を取らなかった。
「戦時工業の最も重要な部門の一つである石油工業の経営者としては、軍部や政府の指導の下に積極的に大努力をせねばならぬ立場にあったのであるが、この戦争の将来に一つの見通しを持っていた自分としてはどうしてもその気持ちが起こらず、日本石油、三菱石油、丸善石油、東亜燃料等々の同僚会社はいずれも軍と提携して、大工場の建設に鋭意前進しているにもかかわらず、私一人があくまで消極的態度を持ち続けることは相当に苦痛であった」(長崎英造遺稿より)と自身で振り返っており、軍部や政府の圧力によって内外両面にわたって多くの問題を抱えながらも戦時を生き抜いて行った長崎の苦悩を窺い知ることができる。このように、長崎が昭和石油を経営している間、彼は更生期の旭石油時代と同様に手堅い経営方針を貫いたのであった。
戦局が激しくなり、南方油田からの輸送状況が悪化するにつれて、昭和石油の生産量は激減していく。昭和20(1945)年に終戦を迎え、翌昭和21(1946)年5月の株主総会で長崎英造ら経営陣は退陣し、首脳陣は旭系から新津系および中立系へと移行していった。
長崎は社長退任後も経済界で縦横に活躍する。吉田内閣の経済顧問となり、昭和22(1947)年には産業復興公団総裁に就任。日商の永井幸太郎(貿易庁長官)、帝人の大屋晋三(運輸・商工大臣)らとともに戦後復興に協力し、さらに昭和25(1950)年には日本証券業協会会長に就任したほか、経団連日米経済提携懇談会会長などを歴任し、日本経済の復興と躍進の基盤造りに大いに尽力している。
戦後の昭和21(1946)年11月、GHQの指令により石油精製会社の太平洋沿岸の製油所はすべて操業を停止したものの、昭和石油は幸いにして無傷で残った日本海沿岸の新潟・平沢両製油所において国産原油の精製を行うとともに、鶴見・彦島のなどのグリース工場でグリースの製造を行い、再建の第一歩をしるしている。
終戦時から石油元売業者の指定を受ける直前の第11期(昭和24年3月期)までの間、同社の経営は厳しく無配を続けていたが、大幅な損失を計上した第7期(終戦時の決算)を除いてはかろうじて利益を計上している。これは、新潟・平沢両製油所の寄与が大きかったからである。このように、終戦直後の昭和石油の経営は、同業他社と比較すればむしろ恵まれた状況にあった。
昭和24(1949)年4月、石油元売業者の指定を受ける。同年6月、ロイヤル・ダッチ・シェルグループと業務提携(*)。昭和25(1950)年、爆撃の痛手を受けていた川崎製油所の操業を再開。昭和28(1953)年、シェルグループの昭和石油持ち株比率が50%となる。昭和32(1957)年、昭和四日市石油を設立。昭和33(1958)年、昭和四日市石油四日市製油所竣工。等々、10年に近い復興の期間、昭和石油は発展の時代が続いた。
(*)第1次基本協定の締結により、シェルグループから原油供給および技術援助を受け、製品の50%をシェル石油(日本法人)へ引き渡すことが決定する。
昭和42(1967)年11月の定時株主総会にて、通産省出身でシェル石油(日本法人)の常務取締役であった永山時雄が昭和石油の取締役として選任され昭和43(1968)年5月、第5代社長に就任する。永山の社長就任と時を同じくして大蔵省出身の塚本孝次郎が取締役に就任した。
以後、永山と永山をサポートする塚本の官僚出身コンビは、就任当時混乱を来たしていた社内を沈静化しつつ、弱体化していた昭和石油の土台を強化していった。永山の描いた構想の主眼は、シェルグループとの関係を良好に保ちつつ、新潟地震(昭和39年6月)で壊滅的な打撃を受けた昭和石油を立ち直らせ、さらに強化してシェル石油ともども発展させ、やがてはこの2社を合併させるという点にあった。
なお、永山は昭和54(1979)年に石油連盟の会長に就任するが、この会長職は昭和59(1984)年まで、異例の5期に及んでいる。
昭和48(1973)年10月の第4次中東戦争勃発を契機とした第1次石油危機および昭和54(1979)年2月のイラン革命を発端とした第2次石油危機により、わが国石油会社の経営は著しく悪化していった。昭和石油も昭和56(1981)年12月期決算においては、創業以来最大の赤字計上を余儀なくされる。
昭和56年12月、石油審議会小委員会は「今後の石油産業のあり方について」と題する報告書をまとめ、経営危機に直面している石油各社の経営基盤を改善するための各種の重要な提言を行った。
その中の一つに「石油元売会社の集約化を行い、また、単数および複数のリーディングカンパニーを形成していくことが必要である」との答申があった。永山は社長就任以来、ひそかに提携先の姉妹会社・シェル石油との合併時期を見計らっていたが、この提言により昭和石油とシェル石油の合併への道を促す外的な要因が整えられていった。
昭和24(1949)年6月にメジャーの一つであるロイヤル・ダッチ・シェルグループと業務提携して以来35年余の歳月を経て、昭和石油とシェル石油は昭和60(1985)年1月に対等合併という形で合併し、「昭和シェル石油株式会社」が誕生する。石油元売会社集約の第1号として前記の提言に見事に応える形となった。永山の社長就任から16年7カ月にしての執念とも言える合併成就であった。
太平洋戦争が熾烈を極めていた時代に、旭石油・早山石油・新津石油の3社が合併して誕生した国策会社・昭和石油は、シェル石油との合併によって国際的石油会社として大きく変貌していった。
その後、昭和シェル石油は燃料供給、潤滑油供給、石油製品供給などの石油事業以外にも、太陽光パネル製造販売やLNG発電やバイオマス発電事業も行う総合エネルギー企業として発展を続ける中、平成31(2019)年4月1日に出光興産と経営統合し現在に至っている。