紡績

多彩な展開を繰り広げた紡績事業

◆東京毛織(合同毛織を経て現・三菱レイヨン、KBセーレンほか)
 設立   大正6(1917)年
 所在地  東京

我が国最初の近代的毛織物工場は明治9(1876)年、明治新政府により設立された官営「千住製絨所」で、外貨減少を抑制するため従来輸入していた新政府の軍服、各種官服の国産化を目指すことを第一の目的とした。また、同時に民間の羊毛工業を育成し、民間毛織物業の設立を奨励した。これに応えて有力毛織物工場が誕生した。

東京毛織は、鈴木商店の紡績事業の中核として運営されてきたが、その起源は「東京毛織物」、「東京製絨」、「東洋毛織」の3社から成る。「東京毛織物」は明治39(1906)年、東京府北豊島郡南千住町(現・荒川区南千住)に資本金100万円をもって設立され、「東京製絨」は明治20(1887)年、北豊島郡王子村(現・北区王子)に資本金100万円をもって設立された。「東洋毛織」は明治13(1880)年、後藤恕作により芝区白金台(現・港区白金台)に創業した「後藤毛織製造所」を起源とし、その後の「後藤毛織」を大正4(1915)年、鈴木商店が買収し、「東洋毛織」に改称した。鈴木商店と後藤毛織との繋がりは、後藤毛織が買い付ける機械を鈴木商店が受注し、高畑誠一のロンドン赴任の最初の仕事が機械の買い付けの折衝であった。

新会社「東京毛織」は、資本金1,100万円、鈴木商店系列会社となり、鈴木商店より藤田謙一が専務取締役に、井田亦吉が取締役に送り込まれた。営業所は、千住本店のほか大井支店、王子支店、大垣支店を設け、製造は、千住工場(旧・東京毛織物)、王子工場(旧・東京製絨)、大井工場(旧・後藤毛織大井工場)、大垣工場(旧・後藤毛織大垣工場)、大阪泉尾工場(旧・泉尾綿毛紡績、大正7(1918)年7月合併)の5工場体制にて、生産能力は、年間630万碼(ヤード)からスタートし、1,000万碼まで伸長。我が国の毛織物事業に独占的な地位(シェア63%)を占めた。

鈴木破綻により昭和2(1927)年、全国第二位のモスリン会社であった毛斯綸紡績と合併し、合同毛織が設立された。

しかし、合同毛織は、昭和4(1929)年倒産してしまい、その再建会社として毛織工業が昭和11(1936)年設立され、鐘淵紡績が経営を受託するところとなり、昭和16(1941)年同社が買収合併した。鐘淵紡績は、その後鐘紡、カネボウと商号変更し、さらに各事業の譲渡が行われ、旧カネボウは清算された。繊維事業は、セーレンとの合弁会社・KBセーレンに(平成17(2005)年)、化粧品事業はカネボウ化粧品に(平成16(2004)年)、化粧品以外の事業はクラシエホールディングに(平成18(2006)年)譲渡され今日に至っている。

また、合同毛織倒産後、その一部が昭和5(1930)年新興毛織として設立され、さらに昭和8(1933)年新興人絹となり、昭和25(1950)年新光レイヨン、昭和27(1952)年三菱レイヨンと改称し今日に至っている。

なお、鈴木商店の経理担当として、鈴木末期の財務に心血を注ぎ、鈴木破綻後の整理業務では金子直吉と終始行動を共にした賀集益蔵(かじゅうえきぞう)は、鈴木整理後、新興人絹常務に就任、専務を経て三菱レイヨン社長、会長を歴任した外、三菱グループ各社の役員、経団連常任理事を務めたことは、特筆すべき事柄である。

◆佐賀紡績(現・ダイワボウホールディングス)
 設立   大正5(1916)年
 所在地  佐賀 

独特の織り方で知られる「佐賀錦」を生んだ佐賀の地に大正5(1916)年地元の有志が鈴木商店に参画を呼びかけ設立。大正9(1920)年当時には、2,000人の工員を擁する佐賀最大規模の工場に発展した。工場が拡張されるにつれ、佐賀市街を東西に貫通する道路が作られると地元の人々から紡績工場の隆盛を期待され“紡績通り”(現国道264号)と永く愛称されるようになった。

鈴木破綻により昭和3(1928)年、錦華紡績に買収された後、昭和16(1941)年錦華紡績ほか3社(日出紡織、出雲製織、和歌山紡織)が合併して大和紡績が誕生し、旧佐賀紡績は、大和紡績・佐賀工場となった。大和紡績は、戦後の繊維業界の再編の波を受け、佐賀工場の規模を縮小したが、ついに昭和61(1986)年佐賀工場を閉鎖し70年の歴史を閉じた。工場跡地は、長い間、大和紡績跡地と呼ばれていたが、平成7(1995)年“どんどんどんの森”と名称が変わり、公園として親しまれている。なお、平成21(2009)年大和紡績は、ダイワボウホールディングスに商号変更した。

◆三国紡績(天満織物を経て現・シキボウ)
 設立   大正8(1919)年
 所在地  大阪 

◆天満織物(朝日紡績、福島紡績を経て現・シキボウ)
 買収   大正13(1924)年 (明治45(1912)年出資、系列化)
 所在地  大阪   

明治の実業家で第三十四国立銀行創立に関わり頭取を務めた岡橋治助が明治20(1887)年に陸海軍用綿布の製織を目的に設立した京都綿糸織物(明治23(1890)年有限会社天満織物に、明治26(1893)年天満織物株式会社に改称)を鈴木商店は、明治45(1912)年に出資し系列化した。(大正6(1917)年の帝国興信所による調査書には、関係会社として位置づけられている。)

本社を京都から大阪(北区天満橋筋西1丁目、後に東区北浜5丁目)に移した天満織物は、主力工場「城北工場」を堂島川下流に建設(大正6(1917)年)したほか、「笹津工場」(富山)、「高知工場」を相次いで建設。また、資本金20万円で設立された「天満織物」は、数度の増資を重ね、大正6(1917)年には500万円に増資し、業績も向上して翌大正6(1917)年の生産高(綿布)962万ヤードを達成、当期利益26万円を記録した。(*天満織物の設立は、「敷島紡績75年史」では、明治23(1890)年4月としているが、「大阪朝日新聞(大正13(1924)年9月5日付」、「国会図書館デジタル」、「帝国興信所調査書(大正6(1917)年」では、いずれも明治20(1887)年3月とし、天満織物の前身の京都綿糸織物の創業時としている。当記念館の企業変遷図でも天満織物の設立を明治20年とした。(天満織物株式会社創業30周年記念帖(大正6年10月1日発行))

天満織物は大正13(1924)年、鈴木商店系の「三国紡績」(大正8(1919)年設立)と合併し鈴木との関係がますます深まった。鈴木破綻後の昭和14(1939)年には、「満州天満織物」を設立したが、同社は昭和18(1943)年、東洋紡績に合併された。

鈴木破綻後、天満織物は昭和16(1941)年、近江帆布と合併し朝日紡績となったが、昭和19(1944)年福島紡績との戦時統合により福島紡績と合併、同年、福島紡績は敷島紡績となった後、平成14(2002)年シキボウに商号変更した。

関連リンク

  • 東京毛織・大井工場(大正12(1923)年)
  • 大和紡績・佐賀工場(旧佐賀紡績)
  • 天満織物・城北工場
  • 天満織物・三国工場(元・三国紡績・豊津工場)
  • 天満織物・笹津工場(現・シキボウ・富山工場)

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