炭鉱

鈴木商店の炭鉱事業は、九州、北海道から中国(大陸)まで国内外を舞台に展開した。

「石炭産業は必ず国策的な産業になる」というのが金子直吉の持論で、金子の意向を受けて鈴木商店の炭鉱事業は、国内外を舞台に展開した。鈴木商店の炭鉱事業の原点となった福岡の小炭鉱、炭鉱事業の中核となった沖見初炭鉱、帝国炭業がやがて羽幌炭砿に繋がって行く。

◆大源鉱業
 設立   大正9(1920)年
 所在地  中国・山西省大同地区

大源鉱業は、第二次世界大戦前の日本の対中炭鉱業投資の一つとして大正9(1920)年事業化された。鈴木商店の他、大倉鉱業、古河合名、三菱合資、三井鉱山、明治鉱業各社との共同出資により大同炭田の開発が行われた。

この時期には、相前後して三井(銑鉄・鋼鉄)、三菱(鉱石)、大倉組(コークス)、古河等の財閥による対中炭鉱業投資を競って行った。しかし鈴木破綻により、鈴木系の大源鉱業は大倉財閥の事業として引き継がれた。

◆興源公司(同宝煤礦股肦有限公司)
 設立   大正7(1918)年
 所在地  中国・山西省大同地区 

興源公司も大源鉱業と同地区の炭田開発目的に、日本側は鈴木商店、久原鉱業、古河合名、大倉鉱業、大阪亜鉛鉱業、三井鉱山の企業連合「興源公司」を設立し地元中国企業2社と合弁で「同宝煤礦股肦有限公司」を設立して採鉱を開始した。

これらの日本資本による対中投資は、中国炭鉱業の発展過程で重要な役割を果たした。

◆沖見初炭鉱
 設立   大正5(1916)年
 所在地  宇部

沖見初炭鉱は、宇部市岬に開坑された小規模炭鉱であるが、山口・宇部炭田を構成し、帝国炭業とともに鈴木商店の炭鉱事業の牽引役を果たした。同炭鉱で染採鉱部長を務めた古賀六郎は、帝国炭業にも籍を置いており、後に羽幌炭砿開発に際しては炭鉱調査のプロとして企業化の道筋をつけた功労者である。創業時に“マンモスの化石”が発見されたことが話題になった。

沖見初炭鉱は鈴木破綻により昭和3(1928)年、大倉鉱業の経営に移った後、東見初炭鉱に買収された。東見初炭鉱は昭和19(1944)年、宇部興産に併合され同社東見初鉱業所として経営されたが、その後閉山された。

◆帝国炭業
 設立   大正4(1915)年
 所在地  下関

大正4(1915)年下関に設立された帝国炭業は、船成金・山本唯三郎の経営する中堅炭鉱の「福岡鉱業」を買収するなど筑豊の石炭開発を目的に新興炭鉱として山田炭坑、中山田炭坑など多くの鉱区を経営し大手炭鉱に対抗する勢力となった。

良質な石炭は鉄道省のほか朝鮮水電、朝鉄など朝鮮大手需要家向けに販売。ピーク時の採炭量は約37万トン、坑夫2,700人の規模を誇った。さらに石炭輸送のために山本唯三郎が開業した鞍手(くらて)軽便鉄道を買収し、帝国炭業の経営とした。

鈴木商店破綻直前の昭和2(1927)年1月のデータによれば、「起業小松炭坑」「木屋瀬炭坑」「御徳炭坑」「鴻ノ巣炭坑」「中山田炭坑」「咸鏡炭坑(朝鮮)」の6炭坑を経営し、下関本社のほか、大阪、神戸、名古屋、若松、門司の出張所、咸興支店(朝鮮)を備えていた。


◆神之浦(こうのうら)炭坑、大徳炭鉱
 神之浦炭坑(設立) 大正5(1916)年頃
 大徳炭鉱 (出資) 大正5(1916)年頃
 所在地  福岡県嘉穂郡

鈴木商店の炭鉱事業の出発点となったのは、大正初期に開発に乗り出した福岡・嘉穂郡穂波村(現在の飯塚市)の小炭田「大徳炭鉱」と「神之浦炭坑」であった。この時期、福岡内陸部には大小多数の炭鉱が林立するようになり一大産炭地として発展した。

大徳炭鉱は大正4(1915)年、鈴木商店と関係のある中島徳松の経営となり、その後神之浦炭坑も中島鉱業に売却、いずれも中島鉱業系「飯塚炭鉱」の一部となった。飯塚炭鉱は筑豊炭田を構成する有力炭鉱となったが、経営難から三菱鉱業の経営に変わった。

神之浦炭坑には、大正期に活躍した絵師・山本作兵衛や西行・良寛を敬慕した歌人・大坪草二郎などが一時働いていたことが記録されている。

宇部、福岡の炭鉱は鈴木の直系企業として運営され大源鉱業を含め鈴木の炭鉱事業を構成する。 鈴木破綻により、沖見初炭鉱は、大倉財閥系の大倉鉱業へ売却、帝国炭業は、台銀の管理に移った後、破産処理された。

◆羽幌炭砿
 設立   昭和15(1940)年開坑(大正7(1918)年鉱区買収)
 所在地  北海道苫前郡羽幌町

羽幌炭砿は鈴木破綻後に展開された事業である。北海道銀行から留萌炭田の北方に位置する苫前炭田の鉱区買収を勧められた鈴木商店は大正7(1918)年、苫前炭田の中心的な30数鉱区を買収した。地質調査には鈴木商店小樽支店と浪華倉庫(小樽)も加わった。

鈴木商店破綻により本プロジェクトは太陽曹達に引き継がれ、昭和15(1940)年以降、築別坑、上羽幌坑、羽幌本坑の三山を相次いで開坑し良質炭を産出した。

昭和16(1941)年、羽幌鉄道が羽幌炭砿を吸収合併する形で羽幌炭砿鉄道が設立され、同社が一貫して経営することとなった。羽幌炭砿の出炭量は戦後のピーク時には年産100万トンを超え、国内有数の優良鉱(中小炭鉱の雄)として知られた。

昭和45(1970)年、エネルギー革命の荒波には抗し難く、羽幌炭砿は会社更生法の適用を申請したがその後取り下げ、改めて労使は国の「石炭鉱山整理特別交付金制度」適用による閉山を申請し、30年余の歴史に幕を下ろした。

炭鉱地区を含む羽幌町はピーク時には30,000人余(内炭鉱地区は12,000人余)の人口を擁したが、閉山により炭鉱は無人と化し、まさに廃墟となった。

関連リンク

  • 神之浦炭坑
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  • 羽幌炭砿(築別抗)の航空写真
  • 築別抗の貯炭場(ホッパー)

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