鈴木商店こぼれ話シリーズ⑳「カネ辰3社とカネタツ3社」

播州・姫路出身の「辰巳屋嘉兵衛」が創業した「辰巳屋」の暖簾を引き継いだ松原藤助を実質初代とする「辰巳屋」は、二代目恒七の時代に暖簾分けにより3社に引き継がれ、その商標「カネ辰」はそれぞれのシンボルとして継承された。

カネ辰・鈴木商店"として独立した鈴木岩治郎が興した鈴木商店が昭和金融恐慌の最中に破綻、その商標は「カネタツ」として受け継がれ、かつての栄光の復活を目指して新たな動きが見られた。

◇カネ辰3社(カネ辰・藤田商店、カネ辰・鈴木商店、カネ辰・柳田商店)

<カネ辰・柳田商店>

江戸後期・享保年間、京都綾部の柳田太郎左衛門の孫の卯兵衛、伊助兄弟は文久2(1862)年、籐製品の製造・販売を創業。明治15(1882)年1月出版の「商工案内"浪華の魁"」には、<籐細工商・柳田卯兵衛(東区)>、<籐細工所・柳田伊助(南区)>の名がそれぞれ上載されており、卯兵衛は販売を、伊助は加工を担っていたことが記されている。

兄・柳田卯兵衛は、辰巳屋・松原恒七の妹・はると結婚し、恒七の子・富士松(後の鈴木商店の番頭・柳田富士松)を養子にしていたことから、弟・伊助と共に辰巳屋とは関係が深く、柳田兄弟の籐ビジネスについて籐の原材料輸入を辰巳屋に頼っていたと考えられる。

柳田兄弟の籐事業は、やがて伊助が中心となって運営されるようになり、卯兵衛は完全に事業から手を引いてしまう。柳田商店は伊助を初代とし、伊助の家系により事業が引き継がれて行くことになる。

一方、辰巳屋・松原恒七が病に倒れ、藤田助七、鈴木岩治郎に辰巳屋の暖簾分けする際、籐事業について柳田伊助にもカネ辰の暖簾を与えて事業を支援している。こうして「カネ辰・藤田商店」、「カネ辰・鈴木商店」と共に「カネ辰・柳田商店」が誕生した。

柳田商店は昭和2(1927)年、二代目幾治郎の時、個人商店から「株式会社 柳田商店」に改組、シンガポール、台湾から直接輸入を始めて事業を拡大。しかし三代目勇次郎の時には戦局悪化のため外貨割り当て制から輸入が途絶え、会社解散を余儀なくされた。昭和22(1947)年、「カネタツ柳田株式会社」として再出発、業績回復して店舗・倉庫を増築、大手デパートへ籐家具、籐敷物等の納入するまでに拡大し、勇次郎は全国籐商工業連合会会長を務める程実績を挙げたが、戦後の生活様式の変化、低廉な輸入製品の増加等により国内市場は縮小し平成10(1998)年、カネ辰柳田は四代目をもって136年の歴史に幕をおろした。

<カネ辰・藤田商店、カネ辰・鈴木商店>

「カネ辰・藤田商店」と「カネ辰・鈴木商店」は、共同で事業を進めることもあったが、当初はそれぞれ独立運営されていた。やがて鈴木商店の事業拡大により、両社は一体となって活動し、藤田商店は鈴木商店に組み込まれて行った。

◇カネタツ3社(カネタツ海運、台北カネタツ、台南カネタツ)

昭和2(1927)年4月鈴木商店が破綻、金子直吉は鈴木再興を目指し、鈴木の名を残した鈴木商店そのものの再出発を考えていたが、台湾銀行などの大口債権者の同意を得られなかったばかりか、金子のカムバックも反対された。金子は鈴木の整理を進める一方、太陽曹達を持株会社として主家の再興を夢見て再び事業経営に乗り出した。

また自主再建を果たし現在につながる会社も多くある。その中には、高畑誠一、永井幸太郎ら鈴木商店社員40名ほどで再起をかけ、台湾銀行や財界人の支援を受けて設立した日商(後の日商岩井、現・双日)がある。

さらに、鈴木商店破綻後も社員の関係は続き、鈴木商店鉄材部の親睦会がきっかけとなって誕生した日本発条(昭和14(1939)年設立)などがあった。

鈴木の商権を引き継ぎ、カネ辰の暖簾を守る動きが他にも見られた。

<カネタツ海運>

大正7(1918)年、鈴木商店に入社し、船舶部にて海運事業の経験を積んだ梶山増吉は、鈴木商店が破綻した後、昭和3(1928)年4月に「カネタツ海運合資会社」を設立した。鈴木時代から縁の大日本人造肥料(現在の日産化学肥料)の年間30万トンを超える燐鉱石の直輸入業務に関し、傭船業務その他一切の仕事を引き受けていた。

カネタツ海運合資会社は、大日本人造肥料による海運のエキスパート・梶山への期待から始まったが、太平洋戦争のため解散のやむなきに至っていた。

戦後、梶山は鈴木時代の人脈から帝人の船舶事業を引き受けるようになり、昭和22(1947)年、帝人船舶部を母体に「国華産業海運」を設立、さらに帝人から保険事業の移管を受ける等、帝人との関係が緊密となり、帝人の出資を得て国華産業海運は、帝人の関係会社に発展。

その後、昭和29(1954)年1月に社名を"国華産業海運"から現在の"国華産業株式会社"に変更し、三菱ガス化学系の海運事業会社として現在に至っている。

カネタツの暖簾を守ろうとする動きは、台湾にも見られた。

<台北カネタツ、台南カネタツ>

昭和2(1927)年4月、鈴木商店が破綻し台湾での残務整理が進む中、鈴木商店元社員、関係者により同年6月16日、鈴木の商権を引き継いで、「台北カネタツ(株)」、「台南カネタツ(株)」が相次いで設立された。

台北・台南カネタツには、社長を置かず、専務による経営体制とし、台北カネタツには、鈴木商店台北支店長代理で樟脳主任だった肥後誠一郎が専務となり、取締役には平高寅太郎、台北支店長だった竹内虎雄ほか鈴木の関係者が名を連ねた。

台北カネタツの事務所は、昭和初年当時の地図によれば鉄道ホテル(現在の新光三越)の向い側で、大倉商事の隣に置かれた。当時の住所は、表町2丁目8番地(後の北門8番地)、現在の新光三越の正に向かい側に当たる。

台南カネタツは、台北カネタツと同時期の昭和2(1927)年7月25日、台南市花園町2-21(現在の台南市北区公園路)に設立された。鈴木商店破綻からわずか3か月、台北カネタツ設立から1か月後であった。

台南カネタツの事務所は、鈴木商店台南支店の住所で、資本金50万円、社長を置かず、専務により運営された。役員に川崎二三、取締役に平高寅太郎、竹内虎雄(元鈴木商店台北支店長)、監査役に北尾直樹、山本壽之助の元鈴木商店関係者が就任。平高、竹内、北尾は台北カネタツ取締役を兼務した。

台北・台南カネタツは、日本の敗戦により解散されたと見られるが、確かな記録が残されていない。

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