帝人設立の歴史⑧
久村の米国出張、広島工場の建設、事業はようやく軌道に乗る
秦逸三が欧米から帰国すると、次は久村清太が米国へ出張に出かけた。久村の出張は秦とは逆に大きな収穫が得られ、後の帝国人造絹糸の発展に大きな役割を果たすことになる。
当時米国ではアメリカン・ヴィスコース社が人絹生産のほとんどを独占しており、その他にはナショナル人絹(クリーヴランド)など3社があるのみであった。アメリカン・ヴィスコース社には近づく方法がないので、久村はナショナル人絹の専務取締役・ベンノ・ボルチコスキーに技術指導を申し入れたところ、180万ドルという巨額の技術指導料を要求される。
そのような巨額の指導料を支払うことができないまま交渉を重ねる内に、ナショナル人絹は破産してしまう。そこで久村は破産管財人のクリーヴランド市裁判所判事に機械設備の買入れを申し入れる。そして久村は優良品だけを選び出し、合計50~60万ドル分を購入すべく取り決めをする。帰国後、久村は金子直吉に機械設備購入の許可を求めたが、当時の鈴木商店は大戦の反動不況などで次第に経営が悪化していたこともあり、ついに許可は得られなかった。
結局機械購入には至らなかったが、ナショナル人絹工の場内に入り、最新の機械に接することが出来たことは大きな成果であった。さらに、久村はナショナル人絹の若い技術者に接触し、工場の配置図、原液・廃液から後処理に至るまでの設計図などを書かせていた。
そして、新たな工場を広島市千田町の元・神戸製鋼所広島銑鉄工場跡に建設することが決定する。この工場は大正9(1920)年に着工し、翌大正10(1921)年に竣工。この広島工場の建設に際しては、久村のアメリカ視察が大いに役立ったのであった。
広島工場では人絹糸の毛羽を防ぐため思い切って「トッパム紡糸法」を採用することとなった。この「トッパム紡糸法」には人絹紡糸機械用ポットモーターを使用することが外国の文献によって分かっていた。そしてこのポットモーターの開発は、同じ鈴木系列の帝国汽船鳥羽造船工場(旧・鳥羽造船所)に依頼。同社の小田嶋修三(後・神戸製鋼所常務、神鋼電機顧問)らは幾多の試行錯誤の末に開発に成功。大正14(1925)年には帝国人造絹糸の広島、米沢、岩国の各工場に一万台余りのポットモーターを納入し、人絹製造業界に一大革命を起こすことになる。さらに、最新鋭のドイツ製ラティンガー紡糸機を導入することにより、ようやく増産体制が整ったのであった。
広島工場は軌道に乗るまでは時間を要したが、大正14(1925)年の前半には帝国人造絹糸が我が国人絹糸の総需要の70~75%のシェアを占めるまでに生産量が拡大。同年下期には2割配当を実施し、かつ鈴木商店の苦境を救うため毎月30万円をロイヤリティー名義として支払うなど、それまでの鈴木商店のお荷物企業から一転して花形企業となった。
こうして帝国人造絹糸の事業は社会的認知度を高め、大正15(1926)年には皇太子殿下(後の昭和天皇)が広島工場を訪問されるという栄誉に浴する。また、昭和3(1928)年には久村清太、秦逸三がヴィスコースレーヨンの工業化が評価され、藍綬褒章を受章している。
さらに大正14(1925)年には、新たに岩国工場の建設に着工し、翌大正15(1926)年に竣工。最新式設備を備えた岩国工場の生産量は早くも初年度に広島工場に並び、以後帝国人造絹糸のドル箱工場となっていく。
一方の米沢工場は、電力、原料面などの制約を受けることから昭和6(1931)年に操業を休止。昭和9(1934)年には工場を廃止し売却する。こうして帝人創業の地であり我が国人絹発祥の地でもある米沢工場は、その短い歴史に幕を閉じることとなった。
そして帝国人造絹糸の好業績、拡張が続く一方で、親会社の鈴木商店は昭和2(1927)年に経営破綻を余儀なくされた。