帝人設立の歴史④
米沢市・財界の熱意により米沢での人絹生産の事業化を決意
金子直吉の人絹生産に対する熱意を聞きつけた米沢の財界は、地元への工場誘致を持ちかける。金子が米沢を視察に来た際には高梨市長、米沢高等工業学校の大竹校長、長谷川両羽銀行(現・山形銀行)頭取をはじめたとした地元の名士が金子を招遷閣に招待し、工場を米沢に設けることを懇望した。そして、米沢市大字館山の旧製糸工場を無償で提供することを申し入れた。
この工場は明治10(1877)年に旧藩主・上杉斉憲が、維新後の藩士の職のために上州の富岡、岩代の二本松の両製糸場に習い工場を設立したものである。一時は230名余りの従業員を抱え最新式の機械も備えた近代工場で、明治天皇も幸行された。しかし明治末年には倒産し、工場誘致の話が持ち上がった当時は荒れ果てた状態であった。
金子はもっと立地条件のよいところで本格的な工場を造りたいと考えていたが、米沢市や秦逸三を支援し続けた大竹校長の熱意を考慮し、米沢に工場の建設を決断する。金子は「ただより高いものは無い」と無償ではなく5千6百円でこの廃工場を買収する。
同行した松島誠は秦の研究を見て「前途の見通しの立たぬ事業を失敗しては鈴木の名にかかわる。あまり人目につかぬ米沢で始めるのがよかろう」と金子に意見した。久村清太も金子に事業化は半年早いと忠告するほど、人絹生産の事業化は不安を抱えていた。
こうした周囲の反対を押し切った背景には、金子が日本で自給できる衣料の繊維は生糸だけで、衣料原料を国内で人造することの重要性を認識していたこと、また『おかいこぐるみ』(絹物ばかりを身に着けている贅沢な生活をいう)の夢を人造絹糸によって実現させようとしていたためである。また金子は、紡績業は綿花を原料とした加工業でマージンは小さいが、人絹生産という化学による繊維原料生産事業のマージンが大きいことに魅力を感じていたのである。
これまでの経緯から、事業化は東レザー分工場米沢人造絹糸製造所(東レザーの分工場)として大正4(1915)年にスタートを切ることになった。(東レザー(株)は同年12月の株主総会で東工業(株)に改称する) 秦は工場の経営に対して向こう3カ年は利益を度外視して専ら研究を主とすることを金子に申し入れたが、金子は即座にこれを却下する。金子は事業は利益第一主義であることを訴え、秦に対して事業の厳しさを教え込むのであった。実際、この事業はその後長らく損失を重ねることになるが、金子は嫌な顔一つしなかったという。
工場は大正5(1916)年5月に操業を開始し、サンプル品を客先に提示した。しかし「この糸には光沢がない。これは人造絹糸ではなくて人造綿糸だ。1ポンド80銭なら買っても良い」と当時の原価10数円を遥かに下回る値段を提示されるなど散々であった。
こうした状況から秦は久村清太に応援を頼み、金子も久村に米沢行きを勧める。秦より「すぐ来てくれねば工場を閉鎖する」との脅迫めいた手紙や電報が届くようになり、久村は重い腰を上げた。そして、秦も人絹事業に専念するため米沢高等工業学校の教授を辞任し、嘱託契約に変更する。こうして秦、久村の米沢における二人三脚が始まったのであった。