日本油脂(現・日油)の歴史③

鈴木商店は神戸製鋼所内に硬化油パイロットプラントを建設

鈴木商店の魚油倉庫(神戸市・(かる)()(じま))で続けられた久保田四郎の硬化油に関する実験室的研究は1年余りで終了し、大正2(1913)年末には一応硬化油工業化の見通しがついた。金子直吉は久保田から「農商務省の水産講習所で魚油に水素を添加して(ろう)をつくる試験が完成した」と知らされ、さらに久保田自ら同講習所で試験をしたという茶碗大の(ろう)を見せられると「この研究を完成するには、第一に水素を製造しなければならない。そのためにはまず水を電気分解して水素と酸素とを分ける必要がある」として、鈴木商店は神戸市(わきの)(はま)の神戸製鋼所内の中央研究所に硬化油パイロットプラントを建設することになった。

この硬化油パイロットプラントの建設に当たったのが、当時鈴木商店の化学部門における最高顧問格であった村橋素吉である。村橋は元鉄道院試験所の主任技師であったが大正2(1913)年末、後藤新平の斡旋で鈴木商店に招へいされ、樟脳の分離では画期的な装置を造った人物である。

村橋の指導のもと、鉄道院時代の部下であった牧実と小林富次郎商店(現・ライオン)にいた磯部房信(後・クロード式窒素工業創業時の技術監督)がこのプラントの建設に参画した。

硬化油製造の原料である魚油と並ぶ重要資材である水素の調達については、神戸製鋼所中央研究所内に水電解工場を建設して製造し、同時に発生する安価な副生酸素は神戸製鋼所で使用するという一石二鳥の村橋案が採用された。

こうして水電解工場の建設が始まり、磯部房信が工場主任となって久保田の硬化油製造試験に協力した。また実際の運転には牧実が当たり、当時入社したばかりの長郷幸治らと協力して工場とプラントの建設に没頭した。

大正3(1914)年には発電機の据え付けを完了し、同年6月には磯部案による電解槽が運転を開始したが技術の未熟さと不注意から運転中に故障が頻発し、ついには苦労して建設した水電解工場が2度にわたり大爆発を起こすなど、一時はプラントの稼働が危ぶまれるほどであった。

しかし、剛直な金子直吉はその成功を信じて多額の出費を顧みず、久保田らの硬化油工業化の試験を督励した。鈴木商店が硬化油の研究に着手してから後に完成する兵庫工場において工業的生産を開始するまでに費やした金額は、500~600万円もの巨額に達したといわれている。

久保田四郎は自身の随筆「油村の思い出とエピソード(4)」において、当時の苦労を次のように述べている。

「 ・・・・ 何分初めての経験であるし、計算通りに行かぬのみならず、運転中故障多く、なかなか水素の供給ができないので、私の硬化油工業化の試験は足踏み状態となり、・・・・ 鈴木商店の販売の者が硬化油の将来性にほれこんで、見本によって5トンとか8トンという大量注文を先売りしたため、試験工場は矢の催促を受けたが、製造の方は何分装置のことごとくが新規の考案を要するのと、これを具体化してみると、思わぬところに欠点が出て来て、一向にはかどらない。従って出来た製品は、雪白のものができたかと思うと、中には3日も4日も固まらないため、種々雑多の色相を呈し、硬化油の昔話のあるごとに、当時の硬化油は、五色の硬化油であったと、笑話の一つになったほどである。その間の工場の苦心は言語を絶したものがあり、2回も大爆発をやったほどで、到底今日では想像もつかぬほどであった」

その後、日本リバー・ブラザーズ尼崎工場の装置などを参考にして幾度も装置の改良を重ね大正3(1914)年末、20馬力の撹拌機(かくはんき)を備えた竪型レーン式200斤(120㎏)入りオートクレーブ(*)による硬化油パイロットプラント(日産100 kg)が完成した。翌大正4(1915)年、プラントが稼働を開始し、ようやくここに硬化油工業化の見通しをつけることができた。

(*)物質を高温高圧で反応させる場合に使用する耐圧気密容器(硬化釜)のことで、攪拌(かくはん)式、連続式、回転式などがある。硬化油製造装置の中でもとりわけオートクレーブの製作についてはその後も並々ならぬ苦心が払われたが、優秀なオートクレーブが完成するにはステンレスの出現を待たなければならなかった。

改めて当時の鈴木商店技術陣の氏名を挙げると次のとおりであるが、彼らは鈴木商店という一企業の枠を超え、わが国油脂工業界の柱石であったということができよう。

村橋素吉、磯部房信、久保田四郎、長郷幸治、牧実、二階堂行徳

日本油脂(現・日油)の歴史④

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    画像提供 日油株式会社

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