日本油脂(現・日油)の歴史④
鈴木商店は兵庫工場を建設し、硬化油の工業的生産を開始
鈴木商店は神戸市脇浜の神戸製鋼所中央研究所に建設した硬化油パイロットプラント(日産100 kg)の稼働が軌道に乗り、日産500kgプラントの建設の目途もついたところで金子直吉はいよいよ本格的な硬化油工場の建設を決定する。
大正4(1915)年のある日、金子直吉は村橋素吉技師と久保田四郎らを伴って、須磨海岸から尼崎までの沿岸をランチで巡航し新工場建設地を物色した。その結果、工場敷地は兵庫運河の河口、鈴木商店の魚油倉庫があった苅藻島の対岸で、神戸電燈の変電所に隣接する砂丘地帯約6,000坪が選ばれ大正4(1915)年6月、村橋の指導のもとで鈴木商店製油所兵庫工場の建設に着手した。
当時は第一次世界大戦勃発の影響を受けて産業資材とりわけ鉄材の不足が著しく、鈴木商店は造船向け廃鉄回収の急先鋒となっていたこともあり、新工場の建設は容易なことではなかった。村橋は電解槽製作資材のほかは、ボイラー、酸素ガス用機材、発電機、工場建設資材にいたるまで大半を中古材でまかなった。
最初のオートクレーブ(油と水素ガスの化学反応硬化釜)は、村橋が苦心の末に考案したもので、その形が陣笠に似ており、これを回転させながら油と水素を接触させるところから俗に"陣笠猿回し式"とユーモラスな名で呼ばれた。この硬化釜は日本人が設計した最初のもので、その後のわが国の硬化釜のモデルになったといわれている。
この間、多忙な研究の無理がたたって腹膜炎を起こして入院していた久保田四郎は大正4(1915)年8月に退院すると、10月には静養を兼ねて海外の油脂事業の視察に出張し、また磯部房信は「満鉄豆油製造所(大連油房)」(鈴木商店製油所大連工場)の経営に従事するため長郷幸治を伴って渡満している。
工場の建設は急ピッチで進められ大正4(1915)年6月にはほぼ完成し、初代工場長には久保田四郎が就任した。兵庫工場は翌大正5(1916)年4月に操業を開始すると同年8月15日、ようやく日産5トンの硬化油製造装置が完成し、ここに魚油による工業的硬化油生産が開始された。その後、さらに装置の改良を重ねた結果、3~4時間で日産10トンの均質硬化油が生産されるようになった。
水電解による副生酸素はフランスの酸素会社に販売していたが、次第に副生酸素が過剰になり電気代も負担になってきたので、水電解と並行して鉄接触法(アイアン・コンタクト・メソッド)(*)による水素の製造を開始した。
(*)鉄接触法は、巨大な鉄鉱石を加熱して酸化鉄塊にし、これをさらに水性ガスで表面多孔質の純鉄にした後に水蒸気をかけるという方法であり、この方法では水素のみが発生し酸素は副生しない。
ほぼ同時期の大正4(1915)年9月、鈴木商店は南満州鉄道(満鉄)からドイツ製ベンジン抽出装置を備えた「満鉄豆油製造所(大連油房)」の委譲を受け、満鉄の大豆製油事業を継承し大連工場とした。当時はまさに大戦の最中で植物油の需要が急増していた時期であったことから、鈴木商店は大連工場の大豆処理能力を日産100トンから250トンへと倍増させ、大連一の大豆製油工場としてその存在感を示した。
さらに鈴木商店は大正6(1917)年、静岡県の清水港の隣接地に大豆油日産500トンの清水工場を、翌大正7(1918)年には兵庫県鳴尾村(現・西宮市)と横浜市に各日産250トンの鳴尾工場と横浜工場を建設し、いずれも大豆製油工場として操業を開始した。清水、鳴尾、横浜の3工場はいずれもわが国における抽出式大豆製油工業の基礎を築いた先端工場であった。大正11(1922)年4月、大連工場を含むこれら4工場は「豊年製油株式会社」(現・J-オイルミルズ)として鈴木商店から分離・独立する。
こうした鈴木商店の意欲的な大豆製油事業への進出は、折からの硬化油輸出の増大に備えて、魚油の硬化だけでなく、魚油より酸価が低く生産費も低廉な大豆油の硬化をも意図したこと、また大豆油をそのまま輸出したのでは輸送費がかさむため、これを硬化して輸出しようと考えたためであった。
当初、兵庫工場は魚油による硬化油製造を行っていたが、その後鳴尾工場が製造する大豆油による硬化油製造をあわせて開始すると、たちまち繁忙を極めるようになった。兵庫工場で製造された大豆硬化油はヨーロッパを中心に盛んに輸出されるようになったため、月間1,000~1,500トンの硬化油製造装置を増設し生産能力を約5倍に増大した。兵庫工場での大豆油による硬化油製造は約2年続けられ、その後は保土ヶ谷工場(大正6年建設)に製造を移した。
兵庫工場はその後約20年の間、鈴木商店からスタンダード油脂、合同油脂グリセリン、合同油脂、(第一次)日本油脂と経営主体がめまぐるしく変遷していくのであるが、その間一貫して輸出用硬化油の大量生産に従事するとともに、国内向け硬化油の販路拡大にも力をそそいだ。
兵庫工場で生産された硬化油は輸出向けを除き、ようやく一部が洗濯石鹸の原料として使用されるようになったほかは、これを分解してローソク用ステアリン蠟とグリセリンに分けるのみで、まだ当時の国内における硬化油の用途は極めて少なかった。