日本工具製作(現・日工)の歴史⑥
空襲により工場の大半を焼失するも、戦後逸早く復興を成し遂げ生産を再開
昭和16(1941)年12月8日、太平洋戦争に突入すると、日本軍の東南アジア進出に従って企業の南方進出が企図され、日本工具製作も現地への新工場建設と販路開拓を目指した。昭和18(1943)年3月、同社はインドネシア・ジャワ島のスラバヤに進出していた播磨造船所との提携協約が成立し、共同経営にて工場を設立する運びとなった。
※当時、播磨造船所は軍の要請により昭和17(1942)年から昭和20(1945)年にかけてインドネシアに進出し、ジャワ島、セレベス島、ボルネオ島に7工場を開設し、新造艦船工事、木造船工事、沈没船の引揚げ・修繕、油槽工事などに従事し、現地への派遣社員は取締役技師長・神保敏男以下、174名に及んだ。
昭和19(1944)年の年明け早々、当局から南方への企業化視察の命を受けた同社は、矢野松三郎社長自らシンガポールからクアラルンプールへと向かった。
昭和19(1944)年2月25日、矢野はクアラルンプールで中国人の所有する適当な工場用地を購入し、同年5月には工場を建設した。その後も設備資材の購入に奔走し、6月には社宅を整備して中国人31名を雇い入れ、マレー工場として工具類の製造を開始した。7月には従業員が80名、8月には93名となり生産は順調に伸長した。この間、本社より数名の社員が到着して陣容も強化された。
しかし、戦局は悪化の一途をたどり始め、マレー工場は本来の工具類の製造を中止し、簡単な兵器を製作するようになった。矢野社長以下現地の社員は昭和20(1945)年の正月も現地で迎え、さらには日本が無条件降伏するまで悪戦苦闘を続け、終戦後はスラバヤ工場、満州工場とともに引き揚げることになった。
国内では昭和18(1943)年8月、同社の第三工場が三菱重工水島航空機製作所(現・三菱自動車工業水島製作所)の航空機製作の協力工場となった。同社の作業品目は航空機鈑金作業用抜型、プレス型その他単一部品、航空機鈑金作業用集成部品用冶工具、航空機部品打抜き作業その他で、一気に軍需工場化が進んだ。
同社はアメリカの爆撃機B29による空襲が頻繁になるにつれて、仕事の他に防火訓練、退避演習などの訓練が多くなった。戦局は一層緊迫し、昭和18(1943)年10月には女子勤労報国隊が入社し、昭和19(1944)年1月には女子挺身隊が結成され、同社に動員配置された。
昭和20(1945)年6月25日、7月7日の2度にわたってB29による明石市街地への大規模な空襲があり、街並みは焦土と化した。明石市は度重なる空襲により兵庫県内で2番目に多い1,560名が犠牲になり、全市街の約61%を焼失した。
同社は7月7日の空襲で同社の第一工場は電気炉を残して半焼、第二工場は全焼、第三工場は奇跡的に作業場は火災を免れたものの付属建物が焼失するなど甚大な被害を受け、従業員3名が犠牲になった。
同年8月15日、戦争終結を告げる玉音放送が流れるや、同社は生産を再開すべく全力を傾注し9月1日から作業場の焼失を免れた第三工場でショベルの製造を再開した。終戦時には500名ほどいた従業員は150名~160名ほどに減少していたが、工場には平和への喜びとともに活気がよみがえった。
戦後はすべての物資が不足し、同社はショベルなども生産すれば売れることは分かっていたが、鋼材はある程度貯蔵していたものの木柄がなく、木柄を造る木材もない、燃料もなければ従事する人員も不足し、生産は思うように進まなかったが従業員は懸命の努力を重ねた。
マレーシアで終戦を迎えた矢野社長以下マレー工場の社員はシンガポールでの抑留生活を解かれ、輸送船を改造した船で送還されたが、すし詰め状態の中13日かけて昭和21(1946)年2月11日に広島県大竹に入港し、2年振りに故国の土を踏むことができた。
矢野は12日の夜に明石に到着し、翌13日に焼夷弾で大半が焼失した上に、前年7月15日に発生した洪水によって惨憺たる有様となった工場の状況を把握し、本社の仮事務所でこの間の事情を聞いたが、皆茫然自失の体であり何も手がつかない様子であった。
この危機的な状況を目の当たりにした矢野は、一日も早く復興に向けて立ち上がらなければならないと覚悟を決め、長い抑留生活と食料不足、長途の航海で心身ともに疲れ果ててはいたが、一日も休養を取ることなく翌日から出社し、従業員を督励して復興の指揮をとった。
同社は焼け残った第三工場で細々と生産を再開していたが、矢野社長が帰還して総指揮を執るようになってからは社内には一段と活気が戻り、第三工場は全面操業に入るとともに復旧作業も一層進んだ。工場の復旧は正規の資材は入手困難なことから、軍需工場や鉱山会社の古い建物などを買い集めて移築したり、古木材、古レンガを入手して使用した。
昭和21(1946)年5月30日、同社は罹災工場全ての復興計画の認可が下りると同時に復興工事に着手した。8月に第三工場が竣工すると6月には第一工場の修復がなり、10月には第二工場が竣工し、一応戦前の状態に復旧すると各工場は次々に製品の製造を再開した。同年11月3日、新装なった第二工場で復興記念式典が開催され、周囲はほとんど復興に手がつかない状態の中で、同社は各方面より復興の速さを称賛された。
その後も、食料不足、燃料不足など厳しい状況が続く中で同社の復興は順調に進み、昭和22(1947)年4月26日には第一工場内に伸鉄工場を新設して小型棒鋼の製造を開始した。昭和23(1948)年1月15日には第二工場の北側の敷地2,858坪に第四工場を建設し、トロ(トロッコ)車輪、建築用ジャッキなどの鋳物製品の製造加工を開始した。この時、トロ車輪との関連で鉄製横転式運搬車(無蓋車・炭車・トロッコなどを車体ごと傾けたり倒立させたりして、中の積荷を落下させる装置)の試作も開始した。
トロ車輪は、ショベル、スコップが呱々の声をあげたことが同社の第一声とすれば、第二声は鋳造製品のトロ車輪といえるほど新しい同社のスタートを象徴する画期的な製品で、その後同社生産の60%から70%を占めるようになる建設機械はこのトロ車輪からスタートしたといえる。
戦後は社会の混乱に乗じて粗悪品が横行したため、需要家からは良品を望む声が高まっていた。同社はすでにこの点に留意して品質の改善に努め、戦前の水準以上のものや高級品を販売し需要家から好評と信頼を得ると、昭和23(1948)年7月には兵庫県重要物資生産指定工場に、9月には商工省事業者規定による指定工場に、翌昭和24(1949)年4月には農林省告示重要指定工場に指定され、商工省中央発注工場にも指定された。